性行動と遺伝子――ショウジョウバエの場合
エドワード・O・ウィルソンの『社会生物学』によると、生物の行動は行動遺伝子に支配されているという。この本が出た頃は行動遺伝子はあくまで概念的なものであったのだが、ようやく最近になってこれを裏付けるデータが出てくるようになった。
なぜ動物は性行動をするのか? ショウジョウバエの性行動と遺伝子の関係についての最新の研究結果を報告する。
ショウジョウバエの性行動は5つの段階に別れる。
ショウジョウバエを利用した遺伝子と行動の研究において、日本は先進している。
ショウジョウバエの生殖異常の例のなかに、サトリと呼ばれるものがある。この例
はオスに見られ、メスと近づけられても交尾のプロセスに入らない、メスに興味を
持たないために「悟り」と名付けられた。しかしそれは悟りによる行動ではないことが実験でわかった。サトリの事例が確認された実験ではオス・メスを一匹ずつ容器に入れたのだが、今度はオスを数匹入れた。その結果が右の写真である。なんとオス同士が、行列を作って交尾をし、次々と連なっていったのだ。
遺伝異常の研究にハエを使用するのは、以前からある手法だ。 1963年には、フルートレス(=不妊)の例が発見された。これは実はバイセクシャ ルで、オスにもメスにもラヴソングを歌うことが後にわかった。
これらの遺伝異常の原因となった遺伝子を特定するとき、これまでは染色体内の遺 伝子を特定するに留まっていた。しかし今は、DNAの断片そのものを釣り出して解 析することが可能になっている。
この方法で前出のフルートレスとサトリのハエを解析すると、このふたつの異常の 原因はおなじ遺伝子座にあることがわかった。通常との差異の程度によってフルート レス/サトリの区別が生じるのである。
ショウジョウバエのラブソング
ところで、ラブソングはサインとパルスから成っていて、音響解析によって調べることができる。
次のグラフを見ると分かるように、パルス間隔はどんな種でもだいたい36ミリ秒なのだが、これは周期的に変化する。
そしてその周期は、ピリオド遺伝子という体内時計やバイオリズムなどを支配している遺伝子によって支配されている。24時間のリズムというのもまた、この遺伝子によって作られているのだが、これも生物が地球上で進化した結果である。
右図で書かれているperというのはピリオド(period)遺伝子の略である。また、s/l/0はそれぞれ変異体のことで、sはshortの略、lはlongの略、0はperがないことを示している。
つまり、図を見ると分かるように、ショウジョウバエの歌のリズムにもピリオド遺伝子が効いている。つまり、ピリオド遺伝子が変化すると、ラブソングのサインとパルスの間隔も変わるのである。
ここで、おもしろい実験がある。
ショウジョウバエの中には様々な種があり、ラブソングもまたその種ごとに異なっていて、ショウジョウバエのメスはその違いを聞き分けることができる。そこで、オスの羽根を切りとってラブソングを歌えないようにしてから、そのオスと正常なメスとを観察箱に入れ、様々な種のラブソングの録音を流しながら、メスの反応を観察してみた。
すると、メスは同じ種のラブソングを聞くと、羽根を切りとられた他の種のオスにでも交尾をさせるのだが、異なる種のラブソングを聞くと、同じ種のオスであっても交尾をさせなかったのである。同じ種は同じラブソングを歌う。とすると、その種間の違いは遺伝子のどこかに刻印されているはずである。そこで、ピリオド遺伝子の塩基を調べていくと、その違いは、なんとたったの4塩基の違いでしかなかった。
「オスとメスの性行動が成立するものを同一の種とする」という定義がある。ショウジョウバエの場合は性行動を成立させるまでにとる行動が5段階あるわけだが、そのうちの1つの行動に関わる遺伝子の4塩基の違いが、種を区別するための遺伝子レベルの差になる、ということになるのである。
参考として、人とチンパンジーの違いは、遺伝子レベルでは約5%の違いだとされている。塩基の数を30億とすると、そのうちの5%だから約1億5000万塩基の違いがあるのである。この違いを多いという人もいれば少ないという人もいるのだが、今はまだヒトとチンパンジーの差が遺伝子レベルではっきりと特定できていないということは言えるだろう。ショウジョウバエでは種間の差がここにあるということが遺伝子レベルで特定できたが、これは本当に稀なことである。現在ではショウジョウバエをはじめ、遺伝子レベルでの解析がどんどん進められている。
DNA
かつては遺伝子というものは概念に過ぎなかった。遺伝子の正体がDNAだと分かったのはつい最近のことである。しかし、DNAが、特に神経系でどのような働きをしているかということはほとんど分かっていなかった。はじめ、DNAの研究は大腸菌を利用したものであった。それが、現在では線虫などというものも使われるようになってきている。線虫の細胞は全体で千個とちょっとくらいしかないため、発生過程をたどることによって卵細胞からの完全な細胞系譜が作れる。つまり、神経系はどの細胞から分化してきたのかといったことが分かる。ショウジョウバエも細胞系譜のかなりの部分が分かってきている。
ヒトゲノム解析で読みとられているのは塩基の羅列のアルファベットだけであって、機能解析はほとんどできない。その方法がないのである。ショウジョウバエはまるで物を扱うように、遺伝子をとりだし、手を加えて戻すという操作で徹底的に調べられる。しかし人間ではそうもいかず、間接的に調べるしかないのである。
DNAの基本的機能に関しては生物の種の壁はほとんどなく、同じような塩基配列を持つ遺伝子(相似遺伝子)はどの生物でも同じような機能を果たしているものが少なくない。このことを利用して遺伝子の解析ができる。ヒトのある遺伝子の塩基配列と同じ配列を人工的に作り、これを釣り餌のようにしてショウジョウバエの相似遺伝子をひっぱりだすのだ。少しくらい異なる配列があっても釣り出すことができる。そして、釣り出したショウジョウバエの遺伝子を解析する。そうすることによってその遺伝子のヒトにおける機能を知ることができる。だから、ショウジョウバエの研究というのはヒトゲノムの研究にダイレクトに関係しているのである。
ヒトの細胞の一つ一つに1.7メートルのDNAが含まれている。ヒトの細胞は60兆もあるので、ヒト一人の体内にあるDNAの総延長は天王星の軌道より長くなる。
複雑系と遺伝子
似たような構造をしていても実際は違う進化の系統をたどっている“並行進化”という考え方があり、その代表例として目玉がよく使われていたが(昆虫の複眼と哺乳類の目は似ているが別の進化の系統をたどっているとされてきた)、目玉を作る遺伝子群(ホメオボックス遺伝子群)が近年発見されて、ダイナミックに種の壁が破られた。並行進化は博物学的な視点から考えられてきたものであったが、バイオテクノロジカルな手法をつかうことで、昆虫にしか無いと思われてきたホメオボックス遺伝子群が人間にもあることがわかった。
塩基のレベルでは、人間には一つの細胞につき何十億もの塩基数があり、それらが数千、数万のまとまりで、ある働きをする構造、つまり遺伝子を構成している。遺伝子の本体はDNAであると突き止められたが、実際にはそれほどよくその仕組みはわかっていない。遺伝子が活動中であることを「発現している」というが、どうやって遺伝子が発現するかについては、ようやく知られるようになってきた。最近の研究によれば、細胞内にある複数の因子によって発現が起こるとされる。加えて重要なことは、この因子の組み合わせの違いによって、1つの遺伝子が複数の働きをするということである。先程のハエの例でいえば、ピリオド遺伝子がラブソングのリズムを支配したり体内時計のリズムを支配したりするといったことになる。仮に1つの遺伝子につき1通りの働きを割り当てると、10の遺伝子では10のことしかできないが、2通りの働きであれば2の10乗、つまり1024ものことをすることができるようになる。これが組み合わせ爆発といわれるもので、最近しきりに語られる「複雑系」とはこの組み合わせ爆発によるものである。
『そんなバカな!』という本がある。作者は名前の通った人で、この本自体よく売れているが、内容は相当間違ったことが書かれている。彼女の主張することをめちゃくちゃにけなす人がいるが、それはほとんどけなす人の方が正しい。例えば、ショウジョウバエの性行動はいくつかのステップによって成り立っている。このいくつかのステップのうち一つのステップ、たとえばラブソングを歌うという行動は複数の遺伝子に支配されている。その遺伝子の中でもどういうリズムを刻むかということだけにただ一つのピリオド遺伝子が効いてくる。つまり、ラブソングを歌うという行動全体では、もっとたくさんの遺伝子が関わってくるのである。
遺伝子行動というものを考えるときには、モノジーン(単一遺伝子)とポリジーン(多遺伝子)という言葉を考える。一つの行動が一つの遺伝子によって規定されているときは、それはモノジーンによって規定された行動だと言えるが、生物の行動の大半はポリジーン、もっと言えばメガポリジーンといったものに規定されている。つまり一つの行動に複数の遺伝子が関与しているということである。社会生物学はモノジーンによって行動が支配されているという大前提が基本になった理論である。だから社会生物学の考え方をポリジーンの行動についてまで適用しようというのは間違いなのだ。インチキな議論というのは大抵こうやって組み立てられている。ある前提のもと、ある境界域内で成り立っている議論を、その境界を取り払って使ってしまえばどんなことだって言えてしまうのである。例えば、サルの世界で子殺しという現象がある。『そんなバカな!』の作者は、子殺しの原因を社会生物学の議論を使って説明する。まず子殺しの遺伝子があると仮定し、その遺伝子こそが生きている主体だと考える。その遺伝子は自らの遺伝子のコピーを残すことを最大の目的としているから、子殺しは生物学的に成立すると結論するのである。
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◆講義の参考文献
文責:緑 慎也・平尾 小径・岸本 渉・勝木 健雄・菊地 悠・小園 拓志・今西 淳悟
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