サポートグループ


   駒場キャンパス 東京都目黒区駒場3丁目8番1号。東京大学のキャンパスの内、教養(前期)課程の1〜2年生と、教養学部(後期課程)の3〜4年生が通うところ。後幾つかの大学院がある。が、多くの学生は3年生になるとともに本郷キャンパスに移るため、3年生に進学することを慣用的に「本郷に行く」と言う。ある種の学生にとって、本郷は実際の距離とは無関係に遠い。
 渋谷まで歩いて10分。下北沢まで歩いて・・15分くらいか。電車を使えばそれぞれ5分以内で到着。肝心のキャンパス近くに飲食店が少ないことを除けば、かなり好環境。

   1313教室 13号館13番教室。駒場の教室番号はそういう付け方をする。 1階にあって、キャパシティは350人。ほぼ一列ごとに緩やかに傾斜のついた階段教室で、収容人数の割に黒板は見やすい。1996年4月17日の初回授業から1997年10月30日までの1年半あまり、駒場の全講義はここで行われた。 最後でちょっと浮気したものの、ゼミ生にとってはこの教室が「講義の部屋」である。

   レポート 96年度夏学期には、毎回講義の最初に10数人を指名し、レポート課題を課していた。この初回参加者選考の課題は、『マザーネイチャーズトーク』、『サル学の現在』、『巨悪VS言論』、『アメリカジャーナリズム報告』のいずれかを読んで書け、というものだった。 第2回講義でそのレポートの内容紹介があったが、学生の熱意と、その、焦りがかいま見えた。未だに印象深いのは、『サル学の現在』を読んでのレポートで、紙面いっぱいに大きくサルの絵が描かれていたというやつである。描いた彼は今頃どうしているのだろうか。

   学生とコンピュータとの関係 94年度以降入学の学生には、基本的にアカウントがある。しかし文系の学生は、情報処理の必修授業が始まるのが冬学期なため、1年生だと夏学期開始の段階では白紙である。
 サポートグループ募集の呼びかけに応じた学生は、そのとき自分がどのくらいコンピュータを扱えるか自己申告している。内訳は大ざっぱに、HTMLが自在に書けるのが7,8人、ホームページを作ったことがあるのが20人弱、残りが白紙というものだった。しかしのちに、「作ったことがある」と答えた学生の内かなりがむしろ「ほとんど白紙」だったことが判明した。筆者のよく知る学生などは、授業で習わなかったため、ブラウザをモザイクしか知らなかったのである。今どき。
 結果出来上がったページの評価は読む方に任せるが、あのクオリティを実現できたのは、「くわしい7,8人」の尽力によるところが大きかった。この学生間の知識偏在は、後に作業の一点集中の遠因となって、迅速な業務処理を妨げることになる。

   ホームページ 

kougi.html


   直接話せたりもするかもしれない それどころではなかった。 1996年7月12日のブレストでは、学生たちは実に、講師と一晩中喋り続けて夜明かしするという事態を迎える。

   交換条件 平たくいうと、このとき素直にレポートを書いていた方がナンボか楽だったのである。 所詮は後知恵だが。

   W.MinJ(やおはん) 由来は不明。とにかくそういうものである。

   Mittwenstein(水戸弁シュタイン) 由来は、当時の講義に頻出していた「ウィトゲンシュタイン」(ウかヴかで議論になった。とりあえずウで統一しているはずである)と、講師の言葉の端々に漂う水戸弁とを掛けた。見たまんまである。
 構成員には、前出のグループに比べてよく言えば反骨精神、わるく言えばアウトロー根性の旺盛な人間が多かったようだ。反主流意識というか。筆者のよく知る学生だけかもしれないが。

   夏学期最終講義 ひょっとしたら第1回講義を上回ったかもしれない、すし詰め講義。というのも、当時ノーベル賞受賞から間がなく、一般の関心を集めていた(それがなくても当然人出は見込まれるが、余計に)大江健三郎氏がゲストだったのだ。講義にゲストというのも妙な話だが、この最終授業には、「二十歳のころ」の最初の取材、講師によるお手本という意味合いも含まれていたというのがその理由。
 この模様は、TBS報道特集の大学教育を扱った回で放映され、なんだか一部にはかなり影響を与えたようである。 その後97年度から入った新入生や、他学からのもぐり学生には、「この番組で知った!」という人が多く、驚いた。



二十歳のころ
   


   自由研究ゼミナール 東大の、学生が学外の講師を招聘して授業を開講できるシステムと、その授業のこと。一定の書類を提出し、学内の審査を通過すれば1単位を取得させる授業として認められる。しかし数に限定があり、応募が多ければそれなりに勝負をしなければならない。97年度夏学期前の申請時には、危うく単位の認められない授業になりかけた。

   ブレインストーミング 会議というよりは、会議の前段階か? 実現性云々より、まず思い付きをぶつけ合う意見会。以降”ブレスト”と略され、数回開かれた。しかしまあ、本当に思い付きをぶつけ合っていたため論議はしばしば拡散し、どこだかわからないところを彷徨った。

   人選 96年7月当時は、本文にも書いたとおり「有名人から市井の人まで」がコンセプトだった。しかし大多数の学生は、「これを利用してあの人に会いに行こう」と不届きなことを考えるばかりで、実際のインタヴュー対象は(お買いあげ/webで読んでくださった方はご存知の通り)有名人に偏った。
 11月ごろになると、「学者が多すぎる」という意見なども出され、幾度か人選をばらつかせることが目的の会議も行われた。ただまあ、口に出したことを実現しようとする機構に欠ける当ゼミとしては当然ながら、その会議が実を結ぶことはなかった。
 『二十歳のころ』冊子に時折「学生の親/親族」が登場するのはその名残り、という側面もある。講師が「とりあえず親に話を聞いてみなさい」とアドバイスしたことも理由だが。



環境問題


   ゼミ生 前にもこの言葉は出したが、ゼミ参加学生の総称。ただ単に「ゼミの学生」という一般的なニュアンスでなく、「俺ら」とか「みんな」とかいう、連帯だか癒着だかを表現する言葉になっている、と思う。

   決め手 前出の MinJ(やおはん)を率いていた学生が退いて後、内部的にも対外的にも「代表者」といえる学生は、ゼミ生の中に現れなかった。 筆者のよく知るゼミ生に限った話をすれば、自然発生的にそういう存在が現れることが理想であると勘違いしていたようだ。また、自然発生的に現れるはずだ、とも。
 以後この問題は、さまざまなところに波及する。

   今考えれば 今はわかっている、といっても、生かせているとは限らない。というか、生かせていないだろう。

   アウトプット もちろん文字通りの意味。だが、ゼミでは「発表」に近いニュアンスで使われている。 作業結果を人に見える形で発表することといえばいいか。あるいは、頭の中での思考の結果を形にして出す、というか。
 ゼミの96年冬学期以降のタイトルは『調べて書く、発信する』だった。"output or perish"であり、97年夏学期になると、アウトプットを出そうとする人間しか所属さえできなかったのだ。本当は。
 このゼミのキーワードのひとつで、慚愧であれ誇りであれ、ゼミ生にとっては何かを呼び起こされる言葉である。



サイバーユニバーシティ


   センター街 つまりこのときには、あのかの有名な看板はまだこともなげに立っていたことになる。いつになったら立て直すのだろう、それともこのままだろうか。
 ちなみにこの新歓コンパの直後、講師は初プリクラを体験した。


   レポート選考 去年を知っているゼミ生たちには、恐怖があった。あの空前の混雑ぶり。年度が替わろうもんなら、新入生が大挙してやって来てもおかしくない。いや、来るはずだ。
 すっかりびびったゼミ生たちは、いつもよりかなり大きい教室に変更してもらい、たくさんやってくるはずの新入生をどうセレクションするかに頭を悩ませた。
 結果、予想を遙かに超えて混雑は起こらず、大教室はとてもとても埋まりきらなかった。選考に参加した人数も、全員受け入れても全く平気なくらい。もちろん参加希望の新入生をどさどさ落とさなくていいのは良かったが、それにしても…という気持になったものだ。いや、なったはずだ。筆者のよく知る学生はそう言っていた。


   埴谷雄高 そのものすごいコンテンツ量、質は、ご覧になった方ならご存知だろう。今このページの責任者として大活躍しているゼミ生は、実はこの企画が講師から出されたとき「責任者はできませんが、サブということなら」と立候補したのだ。今やそのときに決まったどの責任者よりも、彼が働いているのは確かである。



輪講


   代々木オリンピックセンター  立花ゼミの合宿所。97年2月、「合宿はしたいが、場所がないし」「みんなの都合も合いにくいし」ということで、近場といえばとてつもない近場で合宿することになり、以来もう一回、97年9月に利用した。設備が異常にきれいで新しく、利用費も安い。会議室/教室もたくさんある。日常から遠く離れることを望まなければ、いいところ。