対話

敬称略

立花
 あの、まず最初にですね、その大江さんがその二十歳の誕生日をどこでどう迎えられて、その二十歳前後の大江さんの日常生活といいますか、それがだいたいどんなもので、その中で、その、そのころ考えていたことがどういうことかそのへんのところから。

大江
 私はあの東京大学に入学したのは昭和二十九年で、1954年ですね、から四月に入学してそのとき19歳。それで、その時から少しお話しますと、本来ならば昭和二十八年、1953年に大学に入っているはずだったんですがその大学の入試に失敗しましてね、物理の試験があって四問物理の問題があってそれを見た瞬間に僕は何も分からなかった。それが問題であるということも分からなかった(会場笑)。それをお笑いになるお方は物理を取ったことがない方ではないでしょうか。問題であるということがわかればだいたい解けるわけです。そしてあの浪人しまして、私の叔母のあの庇護の下に生きていたわけですが、そうすると二十九年の一月一日に叔母がどうしてもあの宮城に行って天皇様にお辞儀をしよう、僕はいろいろと考えましてそういうのは嫌だと、自分はできないと言いましたらば、もうあの独立して生きてもらいたいと言われましてね、近くの新しい下宿を探して 歩き回りました。そのときにあの一月二重橋事件というのが起こって、もうそこへ行ってれば僕は天皇陛下万歳と言って死んだ人間の一人だったと思いますね。16人死んでます。ですから戦後ちょうど十年たって、まだ九年しかたっておりませんが、天皇ブームというものが国民的規模で非常に大きいことが確認された年が1954年、二十九年でした。で二月には教育二法としまして平和教育は禁止すると教師の政治活動は禁止するという法律ができました。十六日には第五福竜丸がビキニ環礁で被爆しました。すなわち水爆実験が行われたんですね。放射能雨というのが降りました。私は四月に東京大学に入学しました。

 入ってすぐ見たのはいま時計台がある建物と図書館との間にある図書館の前両方からきて時計台のある建物を右に行って曲がるところに大きいあの掲示板があったんですが、そこにあの東大の自治会の人たちの声明が載っていて、お茶の水女子大の学生が一人自殺したけれども、それが東大の学生の思想的な弾圧によってその女学生が死んだといわれているけれどもそうではないというふうな抗議の文章が載っていて僕は非常に正直な深い印象を受けたんですね。そしてしかもちょうどそのころ四月三日だったんですが、全学連の中央執行委員の一人が逮捕されました。そしたら東大自治会の指導者も逮捕された。その二人は後に私はよく知り合うようになりました。全学連中央執行委員だったのは武藤一羊という人でした。後にベ平連なんかで活躍した人ですね。東大自治会の方は石川でした。そして七月一日には自衛隊が発足した。そして僕はフランス語の勉強を始めたというわけです。そして翌年、昭和三十年、私は一月三十日に二十歳になりまして、駒場に来たらば友達が二人いて、その二人がお祝いをしてやろうといって寮の前に食堂がありまして、そこでミルクを買いましてねミルクを飲んでました。そうするとお祝い。そうすると時計塔のある建物の窓からロシア民謡を歌う声が聞こえてきて、それはまあ実際に音楽的才能のない人たちが歌っているものだったんですけれども、カトゥーシャとかそういうものを歌って。それでぼくがあれなにしてるんだろうね、音楽の練習をするんだろうかと聞きましたら僕の友達が、そのミルクをおごってくれた友達が、あれは日本共産党の会合の人たちでこれから歌声運動が始まるんだ。日本共産党は今までのような闘争をやめて歌声運動で愛される共産党というものになっていくんだと。ちょうどその年に六全協というものがありまして、日本共産党は愛される共産党というものになっていった。

 そして八月六日には原水禁世界大会というのが初めて開かれました。それから六月三十日からは砂川闘争というものがありまして、そこで僕らとも行ってデモなどに参加しました。ソビエト水爆実験がありまして、それを指導したサハロフという人には何度も会うことになりますが、まあサハロフは何も言わなかったけど、そのとき首相だったフルシチョフさんは、これで世界戦争は不可能となったという声明を出しました。それで私はその年に行っていたことは、誕生日の直前にやっていたことは何かといますと、選挙運動。それはちょうどその年に総選挙がありまして、総選挙の論点というのは憲法改正するかどうか、ちょうどアメリカ軍が日本の軍備を、戦争放棄の軍備しないという原則を憲法に作ったのは間違いだったという宣伝をずっと始めまして、いろんな宣伝がありましたが、ニクソンさんという人が来まして、日本で日本人にああいう憲法を与えたのは間違いだったということを言いまして、私なんかは憤慨したんですが、そしてこの選挙で憲法改正がなんとなく決まると言われたものですから、私はボランティアの選挙の応援に行きましたけれども、しかし田舎から出てきて何も東京のことを知りませんし学生運動の仲間でもないですからどのように選挙運動したらいいかわかりませんでね、一人で渋谷をうろついてると社会党と共産党が選挙運動をしてまして、机を置いてその机の上に立って演説していました。それを私はその机を支える(会場笑)ことしかできませんからね、特に社会党の議員が立って話していた。そして私はその人の顔をずっと覚えていて、その人は内閣に入りました。机をちょっと横に押してやったらよかったかな(会場笑)それが一つ。

 そして十九歳のときに見た、学生が自殺したという、それがちょっと心に残ってまして、自分と同年代の人間が、十九歳か二十歳かの人間が、思想の問題で自殺するということはあるだろうか、これは非常に私に強いショックを与えたんですけれど、私はそういう自分が思想の問題で自殺するということは思ってもみませんでしたから。いちおうペシミスティックな人間だったにも関わらずそういった考え方だった。ですからその女学生、お茶の水女子大学の学生がどういう人間なのかということを知りたいと思った。自分でひとつ書きましてね、自分のいとこがお茶の水女子大学に行って、そして武藤とか石川が秀才の工学部の学生に指導されてゆき、行き詰まって自殺してしまうという小説を書いて、銀杏並木賞というのに応募したんです。今正門の前に公告が出てるみたい。あれに応募しまして、私は佳作第一等というのだったんですね。それで自分は佳作なのかと思って非常にがっかりして、東大新聞の編集部にいってお金をくださるっていうわけです。二千円くらい。僕はやはり佳作なんですねと言うと、すごく傲慢な学生がいましてね、彼はあとで毎日新聞に入りました(会場笑)がね、私に言ったことはこうでした。予算の都合で入選作の賞金が出せなくなったので君は佳作にした。非常に蘊蓄のある答えでした(会場笑)。

 そしてその年が終わって、そして私はその時学者になろうと思っていました。できれば。ですから文学の話を持っていってこういうものを書いていったりしていましたけれども本気でやっているものでは全くなかった。ただその女学生の問題を文章に書きたいと思いましてね、一人で考えることができないんですよ。ですから、ああ小説に書かして書けば自分が普通に考えているよりももっと奥行きのある考え方ができる、ということを感じていたと思います。そのまあ翌年の四月に、昭和三十一年の四月に本郷へ進学しましてフランス文学科に入りました。そして最初の授業のときに、日に、最初の授業っていうのは四月二十一日、渡辺一夫さんて方が教室に入って来られたときに、輝くような人が入ってきたという印象でした。で、一時間その講義を聞いて、先生は学問っていうものはどのようにやっていくかということを話されたわけだけど、そして私はこりゃだめだと思った。自分は学者にはなれないと思ったんですね。もうすぅっと。それであの、

立花
 学者になりたいと思ったのはどういう学者になりたかったんですか?学者はだめだというのはどこがだめなんですか?

大江
 そうなんです。学者になりたいというのはフランス文学者になりたいと思っていたんです。  私はその頃学者になろうと思っていた。文学を本気で志していたんです。ただ、その女学生の問題を文章にしたいと思っていた。一人で考えることができないものですから、小説の形で書けば、自分が普通考えているよりもっと奥行きのある考え方が出来るってことを感じていましたね。翌年の4月に、昭和31年4月に本郷に進学しました。フランス文学科に入って。そして、最初の授業のときに渡辺一夫さんっていう方が教室に入ってきました。輝くような人が入ってきたという感じで、そして話し始められた。一時間その講義を聞いて、その時先生は学問とはどうやってやっていくかについて話をされたんですが、そして私はこれはダメだと思った。自分は学者にはなれないと思ったんですね、もうつくづくと。そこで…。

立花
 最初どういう学者になろうと思って、それと学者になるのは今ダメだっていうのはどうしてなんですか?

大江
 学者になりたいというのは最初フランス文学者になりたいと思っていた。そして、フランス文学科に入った訳です。それも高校2年の時に、さっき言った渡辺一夫さんの本を読んで『フランスルネサンス断章』って本、後には『フランスルネサンスの人々』になったんですが、それを書いた人に教わりたいと思って受験勉強始めまして、物理なんて問題が訳が分からないっていう規模でしたけれども、それで一年間浪人して東大に入ったんです。もう死にもの狂いで。一番悪い成績だったと思います、僕は。それでやっと入った。そして、その先生に習いたいと思ったんです。でその先生のような学者になろうと思っていたんです。非常に単純だったわけです。それで教室に入っていくと、その先生は堂々とした体格をしている。それから姿勢がいい。それから容貌が実に美しい。このように美しい人がいるかと思いましたね。それから声がですね、実に通るように聞こえて、それでもって自分を恥ずかしいと思っているらしいんですよ。こんなに堂々としていてハンサムで声がよくて、まあ僕が持ってない要素を全て持っている。しかも自分を恥ずかしいって顔をしていられて。こういう人が本当の先生だと思いましたね。自分は学問をやるかもしれないけど、学者にならないと食っていけないですから。その頃四国にはフランス語をやっている高等学校が一校もなかったですから。大学もなかったと思います、フランス文科は。ですから私は四国に帰りたいと思っていた。それで、四国で生きるためには、フランス語で生きられないし、大学で教師になるということは、とてもこの先生に比べるととても出来ないと思って諦めてね、その日から僕は小説を書くことにしたんです。それが私の19歳から20歳の頃でした。

立花
 20歳の誕生日はどんな風に?

大江
 1月31日に僕が覚えているのは、新聞を買う金がないですからね、でいつもこう、今は五十円…百円くらいですかね、当時は10円くらいだったかもしれないけれども。それも、朝日新聞…あ、違う、毎日新聞の朝刊が駒場のパンと、コッペパン一個と同じ値段でしたから、それで新聞は買わない。それで電車来るのを待っている間、新聞の売り場の前に立って、見出しを読んでるっていうのが僕の新聞を読む時間だったけれども。今みたいに丁寧に配達っていうのはなかったです。それで、今日は誕生日だなあと思ってみましたらば、「木暮美千代さん誕生日おめでとう」と(笑)。それで華やかな人の誕生日なんだなあと思ったけれども。学校に行きますと、友達が二人いて祝ってくれたんです、誕生日。暗い顔してたんでしょう。その二人のうちの一人は、皆さんも教わったかもしれません、去年もう辞めましたが、山内という人で、東大英文科の教授をしていて、その人が私のこの前のストックホルムの演説の原稿を全面的に直してくれまして、発音は直す時間がなかったと(笑)。もう一人は下条氏といいまして、今度TBSで主力たちが退陣してしまった。その後で会長職に突然わけわかんない人が復活してきたのを新聞でお読みになったかもしれません。社長になったんじゃないですよ、会長。実権のない会長に復帰してきたという、すなわちまあ、毒にも薬にもならないって感じの、その人がもう一人の、ようするにその二人が僕を祝ってくれたんです。

立花
 駒場にいた最初の頃っていうか、その、典型的な一日っていうのはどういう感じですか?

大江
 典型的な一日はですね、私は駒場に、いや、本郷に行った方がはっきりしてますけど、本郷に行ったときは北区西ヶ原に下宿していて、そこから電車に乗って丸善に出ていくことのできる電車ですけど、それがありました。それで学校に行く。それで朝7時頃に起きまして、そう、7時30分には学校に来ていました。それは授業に出るためではなくて、私の下宿が大変暗いもんですから、本が読めないもんですからね、図書館の前に行って読んで、図書館が開くと中に入って、そして、10時頃には授業が始まりますので授業に出る。それから授業が終わって、3時頃に終わると、また図書館に行って本を読んで、7時頃家に帰るという生活でしたね。それで、アルバイトをしていた時期もありまして、週に3回ほど家庭教師をしていて、その時は家庭教師をしに行くという感じでした。

立花
 真面目な学生だったんですね。

大江
 真面目というよりも、僕は金がなかったですからね。僕はお金を持って遊びに行くということがなかったんです。それで、ちょうど20歳の時に売春禁止法というのが施行されまして、吉原とか、それこそ合法的な売春地帯がなくなったんですね。すると、何人か学生の同じクラスの者が、困ったなとか、どうするかとか相談してるんです。僕は、階級というものがあるなあと思いました。そういう階級の人々とですね、僕のようにもし子どもがいればそれを売ろうかという貧しい階級と(会場笑)。それから僕はフランス語を勉強し始めたんですが、僕はそれまでフランス語全然知らなかったですから、駒場の2年間では本郷で授業についていくことがものすごい…そしたら「次の日までにこの本一冊読め」と言われても読めませんから、二晩かけて読むんです。

立花
 その頃鮮明に頭に残っている本は?

大江
 鮮明に残っているのは、一つはサルトルですが、サルトルの『実存主義とはヒューマニズムである』という講演集なんですが、この講演を読んで、この講演の最後の所に学生からの質問ですね、そういうような質問があって、それに答えてる所で、非常にいいかげんなんです。将来講演のときはこう答えようと思ったんです(笑)。それから、アンドレ・ジッドの『狭き門』というのがフランスの本を最初に読んだもので、そして私はキリスト教っていうのが非常に恐ろしいものだなという感じがして、出来るだけキリスト教から離れていようと思ったんです。それとか、日本語の文献としては先ほど言った渡辺一夫の本をずっと読んでいましたし、翻訳などでホフナーとかも読んで、非常に。

立花
 そういう仲間っていうか、同人誌とかはやらなかったんですか?

大江
 いや、それはそういうことはしなかったですね。大学に入って駒場で三人の友達が出来た。それはみんな、何て言うか、仲間はずれになってるように感じたって人で、マルクス主義とかは読んではいましたが。フランス語でアリエネとかいう言葉、外国人のalianっていう、アリエネ、疎外されてるってことは気が違ってるような人間として見られることなのかって思ったことがありますが、僕たちはアリエネされていて疎外されてるものですから、趣味が一緒で友人になった訳じゃないんです。その山内君は英文学をやっていて英文学だけ読んでいる。もっと広い趣味を持っている人もいる。そして私は文学に興味があったんです。  それで、ちょうど、オリエンテーションがありましてね、19歳か、20歳の時に、オリエンテーションがあって、今頃ですよ、大体です。パスカルの専門家で、世界的に有名な方ですが、前田陽一先生という方がいらっしゃいます。前田陽一先生がオリエンテーションに来られて、「君達は、フランス文学科に行く人間は、もう翻訳を読んではいけない。」といわれた。それから「君達がフランス語だと思っているのはフランス語ではない。」といわれた。例えば、誰かフランス語だと思うことをいってみる奴がいるかといわれて、学生が立ち上がってですね、「秋の日の(くすっ)、ビオロンの…」何かの詩をフランス語で喋りましたらば、それを前田陽一先生が本当のフランス語で復唱されましたら、それが全然違うものでしたので、僕達学生は納得して学問への情熱を高めたし、その「秋の日のバイオロン、ビオロンの…」は仏文をやめて農学部に…(笑)。それで、その、翻訳によってはいけないといわれましたので、読まない。そうすると、同人雑誌を作っている人はいられましたけれども、みんなね、翻訳を中心に読む人で、あまり語学を熱心にしなかった。それと、もうひとつはですね、その頃、日本共産党の力が非常に強くて、大学に出ている雑誌には小説が載っていましてね、『駒場文學』でしたか、タイトル、今でも覚えていますが、『花の輪に』というタイトルで、それは『世界をつなげ、花の輪に』。世界青年同盟とかいうものの歌なんです。そういうふうに、本当に、真面目な平和運動をする学生というのがいたんですね。何かその人は才能ない人だと思ったんです。それで、田所泉っていうその作者は、かなり有名な人で、その後も低空飛行を続けてこられたわけです。低空雑誌の中で。そういう人の中には入れなかったんです。

立花
 それで、その、学者になろうと思ってたのは渡辺一夫さんの文学で、学者になる意のはやめて、それでもう、その時すでに、あれですか、文学の方に、こう…。

大江
 僕としては、就職することには、あれというかね、就職することについて、今はもうあまり吃りませんけれども、そのころ、非常に吃っていたということが、まずありますね。それから、言葉をうまく喋れない。それから、もちろん方言がありますからね、え〜、標準語で、この議案に標準語で話す時の、強調する場所というのがよくわからないんです。ですから、例えばですね、今日もニュースでいうと、テレビなんかで婦人ニュースの時間が、「婦人ニュース」というのじゃないのかな? 何か…長い‥、というか、デザイナーが死んだとかいってる番組で(笑)、「絶対…、絶対そうじゃない」というところをですね、「ぜぇったい」とかいうわけです、女優さんが。ぼくはね、子供というか、大学2年頃まで、そういうふうに「ぜぇったい」とかいうふうに、副詞なら副詞、あるいは形容詞なら形容詞、動詞なら動詞をそれだけ長く発音したりすることができない。ですから、あれと同じなんですよ。ええっと、コンピュータなんかで、間違えたりすると、「ソノ問題ハ解答スルコトガデキマセン」というでしょ。ああいうふうに喋る。全部吃って。ですから、とても人間関係うまくいきませんから、就職できない。そうすると、当然、できる仕事というと、小説を書こう(笑)って思ったわけですね。まぁ、小説っていうのが好きでした。

立花
 そっちのほうが、自信あったんですか。

大江
 自信という…、その…、自信という…、その〜、え〜、今の例えば雑誌に載っかってる小説というのに対して、こういうもので…こういうものを書くことはできないけれど、こういうのではないものは書ける(立花先生が笑う)と思ったんです。

立花
 すると、自分の将来像としては小説家になるというのはかなり明確な意味になってたんですか。

大江
 いや…、それがですね〜、なんていうんでしょう、将来を見ないで仕事を始めるといいますか、その時に初めて将来を見るのがこわいということがありますけれど、仕事を、小説を書くんだけど、その小説を書いて、それから出来上がって、発表する。そうすると批判されたりする。それでそれを書き直してみたいと、もう一回書いてみる。で、もう一度出すことになる。そういうことでやってきたわけですね。何十年も。ですから、将来をみて、自分がどのくらいの小説家になれるかとか、誰に勝つかということは、まず考えなかったし、考えることができなかったんです。ただ、人があいつは文章がまずいといわれると、それは違うと思う。自分はこういう文章をかこうとしているのであって、意識的にこれを作っているのであって、それはあの、そういう批判をしている人達の文章とは違ったものを書かなきゃいけないと自分で思っているので、そうしていると…。

立花
 若い頃っていうのは、大抵の人間はいろんな野心を持って、まぁ、ノーベル賞をとろうとまでは思わないまでも、各々歴史に残る傑作を自分で書いてやろうと…。そういうのはありましたか。

大江
 僕の野心というのは、一番大きい野心は、いつも夢見ていたのは、ある日、あれ、レポートなんかを出したならば、その翌日、渡辺一夫さんが、「大江君って人はどの人ですか。」というという…(会場爆笑)…一度もそういうことはないですよ。

 小説家っていうと、その、例えば、今ノーベル賞といわれましたけれど、ノーベル賞を授賞する、授賞したい、授賞しようということは、ずっと僕は考えなかったんです。ノーベル文学賞の候補になるということになりますと、家の前に新聞社の人がこられますからね。しかも、賞が午後9時に発表されるということになっていて、電話なんかで、9時15分くらいまでに結果がわかるというふうにいわれてて、その15分間だけ、賞をもらうかも知れないとぼんやりしていました。そう、それだけです。そして、小説家としてもね、例えば、戦後文学者というのは僕達の同時代の一番いい作家ですが、まぁ、今もですが…。それで、武田泰淳のようには書けない、野間宏のようには書けない、堀田善衛のようには書けないという気持ちがありまして。それでまぁ、阿川弘之のように書こうとは思わない(笑)。それはそうなんですけど、しかし、野間さんとか、戦後文学者というのは非常に巨大な人で、非常に誇りを持っていた。あるいは今でもですが。あの人達に認められる小説家になれればいいなという気持ちは持っていました。

立花
 ちょっとその…、駒場に最初にはいった時にですね、大学で初めて、こう、見るですね、この、授業のタイトルというか、領域というか、それから、とってくことになりますが、そういうもので、どういうものをお取りになって、そういう新しく知った学問で受けた影響っていうのはどういうものがありましたか。

大江
 僕は、もともと理科系のような人間だったと思っているんです。

立花
 ああ、そうなんですか、ほう…。

大江
 それで、最初の年は理科を受けたんです。理Iっていう…。今でいえば違うのかな。それで、地学っていうのが好きでしてね、地学ってのが好きで…、その頃から地学のことをやりたいと思っていて、物理学と天文学をいっしょにしたようなものですね。そして、大学にはいってすぐ地学の授業を受けたんですね。2年で。それが非常に面白かったですね。坪内先生という先生です。それからね、もう一つは、あそこに900号って教室がありますね。廃墟みたいになっていますが…。あそこで、憲法っていう授業があって、小林っていう先生が初めて憲法の授業をされたんです。その時の私は生徒だったんです。その時私がレポートを出しましたらば、その時助手か何かを、本郷の助手をなされていたか、助教授だった篠原一先生という方が、非常にいいといわれて、法学部の方に進んではどうかといわれたということを、誰かいってくれましたが、もちろん、そんな成績良くないからいけなかったと思います。その憲法というのが面白かったです。それから、フランス語で、え〜、例文を引用されるとすると、例えばフランス語の、法律とか、フランスの人権宣言とか、フランスの革命、そういうものがおもしろかったです。それが非常に印象深いですね。

立花
 20歳というのはこう、頭も心もすごくナイーヴで、すごく強烈な刺激を受けて、そういうものの影響ってありますかね。

大江
 ええ。

立花
 そういうものってのは何かありますか。

大江
 ありますね。そうですね、フランス語のー、初めて読むようになって、やっぱ20歳の頃にサルトルの『自由への道』っていう小説読んだんですね。そして同時にカミュの『ペスト』っていう小説を読んだんです。20日間くらいかかったと思います。全4冊くらい読んだ時に、僕としては、アルベール=カミュって人が自分に合ってると思ったんですね。アルベール=カミュって人を勉強しようと思った。ところが、大学でその話をしたならば、同級生でもう死にましたが、非常に優秀だった奴が、「サルトルと比べれば、カミュは非常に小さい作家だ。一生サルトルを読むことはできるが、一生カミュを読むことはできない」と叫んだので、僕は、カミュを読むことを諦めたんですね。そして、サルトルを読むことにした。それが考えてみると、自分の文学的成長を歪めたと思います(会場笑)。僕は大体アルベールカミュをずっと熱心に読んでれば、小説家としてあんまり失敗しないできたんじゃないかなと思う。そいで、サルトルって人は、僕の資質っていうか、性格、感受性ってものと全く違った人なんですね。それがね、サルトルの真似をずっとしようと40歳くらいまでしてましたよ。それから、40歳頃になってフランスに旅行してたまたま駅の売店でカミュのエッセイ集を買ったんですね。エッセイ集4冊くらい組になって売ってたんですけど、廉価版でっていうか、値引きして。で、買って、ホテルに帰って読んで、サルトル信仰から自由になったんですね。ああ、っていうことは、あの時、カミュを読んでも良かった。カミュを読んだ方が良かったと思ったんですね。それが、20歳の時で、ですから、20歳くらいだと、誰かが言う言葉は、本当に非常に、自分を影響づけるんだけれども、それが、間違ってるってことを発見するためには、本当に長い年月がかかるんですね。まあ、しかし、それは無意味ではない。

立花
 その人は、なんでそんな影響力を、大江さんに対して持っているんですか? 先輩?

大江
 (むせながら)僕より、フランス語ができるから(会場笑)。そいつはね、意地悪な奴でしてね。1年目の2、秋学期から、あれ習うんですね。動詞の活用。秋までに、動詞の活用、条件法とか、全部覚えなきゃいけなかった。そして、秋からその先生が、動詞の活用をやめて、テキストを教えてくれるんですね。そいで、夏休みが終わって、秋学期の最初の日に試験があるもんですから、ずっと僕は動詞の活用を覚えていた。そして、それが終わったならば、プロベールの「コルサートルヌクナーティオ」っていう本を教えてもらうことになっていまして、その先生は、山田ジャックって言いまして、プロベールの専門家で、森まゆみさんっていう有名な小説家のお父さん、ごめんなさい、子供です。そして、とにかくそれで、僕は動詞の活用をずっと覚えていて、'asseoir'って、座るっていう動詞に2つの活用があるわけでしょ。僕は食堂でそこに座ろうとしたら、「大江君、asseoirの条件法を2つ言ってみろ」って言う。僕が考え始める。そしたら、そこに座ったんです(会場笑)。

立花
 最初チラッと、大江さん、「大学時代何を学んできたか今日みんなに言っておきたいことがある」みたいなことを言ってましたけど。

大江
 ええ。

立花
 それは…

大江
 それは、僕は、後で、ちょっともし時間を頂ければ、E.P.トムソン、エドワード.P.トムソンのことをちょっとお話ししたいと思ってますけど。僕が大学で何を学んだかっていうと、大学で学んだものはどうも専門分野でなかったと、「小説をどのように書くか」とか、「小説家としてどのように生きるか」ってなことは、少しも学ばなかったと思います。そして、じゃあ、何を学んで、それによって生きていくことができたかっていうことを考えると、それはなかったかと言いますと、あります。それは何かっていうと語学だったと。語学っていうものを一人で習っていく技術ってものを習ったと思うんです。フランス語にしても、英語にしてもですね、それを一人で。大学卒業してもう40年近くになりますけど、大体まあ1日に2時間くらい外国語を読む。読まなかった日はなかったと思いますけど、それを、2時間なら2時間読んでいくっていうことの、字引の利用の仕方とかですね、どういう本を選んでいくかっていうこと。橋本けんやのなんか、どんどんとんでいくんですね。別の方に向かって。そういうことをするための基本的な力ですね。語学・外国語を、専門家じゃないけど、素人ではない。けっして、専門家じゃないけど、素人ではない、アマテュアーっていうかね、アマテュールとして、読んでいくっていう技術を習ったんです。っていうか、そういう態度を。それが僕の一生を決定したと僕は思います。ですから、文科の学生さんは、あれですね、僕ちょっと息子が農学部を、大学院卒業して、今年就職しましたが、やはり専門的な知識を持ってる。専門的な技術を持ってます。話してみると。ところが、私の場合は、文科の場合は、専門的な技術ってものは何もないですよ。しかし、語学というのをやって、一人で訳したり、一人で本を読み続けていく。専門家ではないが、限りなく、専門家に近いアマテュアーの読み方ってものができるようになった。それが、まあ自分にとっては、一生の宝でした。ですから、それを、あらゆる側面での学問の勉強の基本と言いたいと思います。

立花
 まあ、これからある程度、ちょっと話を先にずらしますと、有名な書ですから、えー、世に出版され、まあ、例の光さんが生まれてくるわけですね。まあ、その時のことが、その時の体験が、どんなふうか書かれておいでですけど、あの中で、大江さん、まあ、大江さんと思しき、その主人公、

大江
 ええ、大体僕と思ってくれれば‥‥‥

立花
 はいはい。あの彼、えっとこれは、小説の中じゃなくて、やっぱり、大江さん実在したかもしれないけれども、僕は、ああいうシチュエーションに立ってみて、教養とかそういうものが何も役に立たないもんだとおっしゃいますね。全て、つまり、ああいう世の中の、これまで、教養的な形で自分が身につけたものが、何の役にも立たない。それでも、あの状況を切り抜けるわけですね。

大江
 ハイ。

立花
 何が切り抜けさせたと思いますか? 切り抜けさせた何ものかですね、それが、やっぱり、20歳前後の自分の成長過程っていうかね、それと、どっかでこう、多分つながってるものがどっかにあると思うんですけれども、それはどのようなもんですか?

大江
 僕は立花さんからインタビュー受けるたびに、「自分のよく考えなかったこと考えてる」って気が付くことあるんですが、今のもそうなんです。ちょっと変わってますが。 大学で小説を書き始めまして、それから小説家になったんです。そして、29歳、28歳の時まで小説を書いておりまして、今度、大江健三郎小説全10巻っていうのを編集したんですが、自分の作品を読んでみましたらね、自分の作品を。最初の辺りの長編は全部駄目なんです。これでこのままやってたらば、もう本当につまんない小説家になったろうと思います。まあ、小説家としても生きていけなかったろうと思うような作品がありましてね。小説家で生きるのやめればいいですよ。そのまま小説家を続けるんですよ。恐ろしいことになる場合もあるんですよ。本当。大体同じ頃に東京大学にいた作家で、やっぱり同じように芥川賞をもらってまして、今、「私びっくりしたんです」っていう言葉が一番上品な言葉であるような小説を、夕刊フジなんかにずっと書いてる人がいますよ(会場笑)。そういうことになる可能性だってあったと思いますよ。まあ、僕はあれほど文章がうまくないけれども(会場笑)。それで、日常生活の体験を見ると、『遅れてきた青年』というのと、もう一つそれを除いてしまった。僕の作品集から。それくらいそれは、だめなものでした。このままいったら、これは、小説家としてどうしても生きていくことが出来ないっていうのが見えてる状態だったんです。

 28歳の時に、6月13日ですが、子供が生まれて所帯持っていた。今もちょうど、僕の友人が非常に重い病気で入院しているんですけども、先生方がですね、非常に悲観的なことを言うってことに気が付いたんですね。非常に希望を持たされるようなことを言わないでですね。例えば、若乃花が一敗、初日に一敗すると、「もうこりゃ駄目ですよ。休場するか全敗ですな」なんてことを言う批評家いたらおかしいでしょ(会場笑)。医者はそうですよ。まずは、ものにつけて、悪いことばかり言うんです。CTスキャンなんかを盾にして、「ホラッ」って。僕ら達は、ほんの少しの希望でも持ちたい。しかし、まあ、回復してきましたので、そのたびに嬉しいことですが。私の友人の場合、まあ、回復してきてるが、私の子供の場合は「回復しないだろう」と先生が言って、そうするともう、詳細にですね、将来どのように状態が悪いかって言うことを知らされた。言われた。そして、まあ私の友人の場合、まあ、1ヶ月くらいそういう状態が続いていた。

 そうすると、僕が考えたことはですね。考えたことは、今、なんですか、子どもの時に戦争とかいろいろなことを経験して子どもなりの倫理観とか、どのようなことが正しいとかどのように成長していきたいかとかいうプランとか、感受性を持っていた。人間の基本のようなものを持っていた。そして生きてきたけれど、大学に入って、すごくいい先生にも習った、小説を書いた、そこで、だいたい20歳より後に、21歳より後に勝ち得たもので自分は成り立っていると思っていたんです。自分の教養も何も。そして、生活法も行動法もそう思っていた。ところが子どもが生まれて、その子どもをどうするかっていわれますと。先生が、あなたどのようにしますかって言われた。もう、先生の顔をまっすぐ見ていられない。うつむいてしまう。僕は、そういう人間が一番嫌いなんですよ。どういう悪い状態でもうつむく奴って言うのがあんまり好きじゃない。それで、僕常にうつむいてて、時々顔上げるんですけど、ところが、自分が何か卑劣な感じがする。そして自分がその、子どもの時に勝ち得た生きる知恵、生きる倫理のようなもの以外の何も持っていない。大学で3年間勉強してそれから本も読み続けてきたし、小説も書いてきた、しかし、そこで勝ち得たものは自分を支えない。それからそれまで書いてきた小説、俺はこういう小説を書いてきたんだ、だから、それを支えにして生きろって言われても、そんなものは無意味だと思った。こういうものは、くずだと思った、自分の小説が。そして、そう思った。それで、先生で、渡辺一夫っていう先生を尊敬していまして、先生の本は全部読んでいますしね、サルトルは全部読んでいる。すぐ引用できるっていう感じなのに、そういうものも役に立たないと思って。ま、それが一番僕にとって大きいショックだったんですね。自分の子どもが生まれてきた。そこで、今まで偉そうなことをいってた知的な鎧というようなものは、全部無意味だと思った。子どもの時のままだと思ったんですよ。

 しかし、それでもですね、20歳のころに始めたことがある訳です。それでさっき言ったことですよ、すなわち、例えば、1日2時間は字引を引いて本を読むということですね。外国の本を読む。その場合、それはですね、自分の新しい生きる習慣というか、生きる技術としてあって、それは平気なんですよ。非常に苦しんでいるんですけれど。本を読む時間は。そうすると、増大したりしてね。それでそれが終ると、また病院にいって、だからどうもその、一番子どもの時期に最初に無意識的にならう人生の習慣というものが非常に重要だと思うんですね。ですから初等教育というものは非常に重要だと思いますが。あるいは、家庭教育というものも非常に重要だと思いますが。それと、やっぱり18くらいから、その、大学に入って、入って何か勉強してやろうと思って、その勉強の最初のとっかかりで習う、最初の方向づけ、というのはオリエンテーションというものが非常に重要だという訳です。それで、その時あった先生の前で、まだまだいっておりませんからね、もういっぺん先生のところに会いに行く前には方針を決めていこうと思っていたんですけれども…。

立花
 あのー、『個人的な体験』のなかで、一貫して逃げてしまおうとする衝動に駆られていますよね。それで、他の小説、小説『アグリー』のなかで実際に逃げてしまう主人公を描いていますが、あーいう心理的な状況って言うのは、その当時の大江さんの心の中で、こう、ある葛藤もあったろうと思うんですね、で、まーその『個人的な体験』の中で、完全にこう、逃げようとしていた自分を突然その、自分をここで逃げたら自分と言うものの存在は無きに等しい、で、逃げないで立ち向かうっていうか、そこにこう、心が変わる瞬間がありますね。

大江
 はい。

立花
 あそこが、小説の中ではあまり描かれていないんですけれども、現実の大江さんとしては、あそこでその、逃げるから逆にね、その、立ち向かう方にね、その、戻らせたものは一体何なんですか。

大江
 それも小説で書いたままじゃありませんけれど。例えば小説の中では酒場に行ってお酒を飲みながら考えている。まーそのころ酒場に行ったりはまだしなかったと思うんです。その後もあまりしませんけれどね。それで、自分の部屋で考えていましてね。そうすると、ちょっと広島にいって帰ってきてだったと思いますが、その時、『ヒロシマ・ノート』っていう本の仕事をしに行ってたんですが。夜になって一人になって考えてみると、問題点がはっきりしたと思ったんですよ。それは、あの物理の問題、最初に、解けなかったってこと話しましたけれど、それは、今言おうと思って最初に言ったんです。その物理の問題、今でも思い出すんですね。その物理の問題全部覚えています。それから、白い余白も覚えています。で、どうしてこれが問題なのか判らなかったってことは非常に恥ずかしいと思った。試験なんか受ける権利はないと思うくらい恥ずかしいと思った。それでそのことが、僕のまあ人生のまあ、基本形をなしていると思った、その時も、まあ、考えておりまして、そうすると、突然自分の前で子どもが、3週間だったかな、子どもが3週間生きて、死ぬっていうことは無意味だと思った。それが、命題の第一ですね。

 第二に自分は今28歳になっている。28年間生きてきた。そして、この問題を、逃れてしまうと、何もしないで放っておけば子どもは死んでしまうわけですが、何もしないでこのままいるっていうことをしたとすると、自分の28年の生涯・人生も無意味だと思った。そして、それならば無意味でない方向にいきたい。そうすると、まず、3週間、生きた子どもを救助する、助けることが重要だと考えたわけですね。それは、この時に思ったのは、問題が出てくるともう解決は決まっている。先ほど言ったサルトルもですね、実存主義とは何かって言う講演での質問の一つで非常に難しい問題を提示されたんですね。誰かに質問しようと思った時、君は答を選択しているのだと。ある人に、あの自分の大切な問題を聞こうと思った瞬間にもう、その人がこういう答を言うだろうってことが分かっていて、だから、人がこう選択しろと言って選択したからといって、それは自発的な選択でないとは言えない、と答えているんですよ。ですから、それと同じことなんですけれど、問題を設定した瞬間に答えは分かったんですね。自分はこの子どもと生きる他ないと。それがその、僕の転換点だと思うんです。

立花
 その後ね、例の広島との出会いというのがありますね。それであそこでま、『ヒロシマ・ノート』の始めの方でね、その時の自分を描写して、その、退廃と神経症的状態で、とありますね。そこでやっぱり広島のヤスリで自分を擦って自分を鍛え直してもらいたいと。広島体験というのは、その、立ち直りっていうかそれに、大きな…。

大江
 そうです、それは2つの側面があると思いますね。一つはその今いったような問題を考えている、それも具体的にですね。社会的な今までの自分の内面のなんていうか、内面の言葉で考えていたのが、外側に、それに対応するような自事態があって、それと照らし合わせながら考えることができると思ったんですが、一つは僕は、フランス語が好きで、フランス語の言葉で、威厳のある人間、の威厳という言葉が好きだった。サルトルのイディオムとして好きだったわけですが、広島にいくと病気で苦しんでいる人の中に、本当に、この人は、威厳を持っている、威厳しかないと思えるような人がいるわけです。宮本さんっていう人なんですけれども。そういう人とか、そういう人を治療していられる、重藤文男さんというお医者さんがいましてね、本当に人間的な威厳のある、しかも人間らしさがある。ああ、こういう人が実際にいるんだな、ということを思ったことですね。

 それから、例えば、渡辺一夫さんのユマニストってなことで、非常にまあ、単純に言えば、非常に人間らしくて、人間的なことだけを考えているけれども弱くなくて非常にこう、粘り強いような、なかなかつぶれないような、しなやかなような人間、そういうタイプの人間ということを、フランスルネッサンスから、先生がよく、引き出して書いていらっしゃった。僕自身はしかし、それをよく、好きなんだけども、実際にそういう人がいるとは思わなかった。ところが、広島に行ってそういう人に何人もあったんですね。それと、自分がそういう人と全然違うという感じですね。それに脆くてね、脆いだけなら、つぶれればいいけども、なんとなくその口上みたいなものを作り出してですね、そういうそういう大切な問題を回避して、逃げ出していながら、なんとなくぬめぬめと生きていくような感じが、したんですね。それがね、僕は嫌で、何かに書きましたけど子どもの時にすぐ学生を殴る校長がいましてね。その小学校の時に。すぐ殴るんですよ。ちょっと笑うと殴る。そして、天皇陛下の、皇后陛下は、なんて言われると僕は何かがおかしい気がして、ちょっと笑うでしょ。するとすぐ、殴るんですよ、先生。僕が3回笑ったら3回覚えているんですよ。3回呼び出して「大江、大江、」こうやって3回殴るんですよ(笑)。それでね、2回殴られたけど、3回目その先生が呼んだ瞬間に僕は、答えようと思ったけども、足かなんか痺れていて、答えられなくてですね。答えなかった。そしたら、その先生が、次の人を呼んで、次の人を殴るんですよ。僕は一回得したと思った(笑)。こんなにいいことがあるかと。それで、良かったなあ、と思ってですね、家に帰って、一人寝てましてね。自分自身をこう、だきしめたりなんかして(笑)。よかったなあと。ところが、このままじゃ、こういう人間になるのは俺は嫌だと思った。こういうことで、校長に殴られないで、一回、殴られなかったことを、しかも自分の不正によって、そういう子ども、というかそういう人間は俺は嫌だと思いましてね。翌日先生のところへ行ってわざわざにやにや笑って、そしたらその先生がすごく怒ってですね、「バリッ」って僕を殴った。ああ、俺も、正しい道に戻った(笑)。思ったんです。そういうことは、ありました。そういう感じ、その、そういう子どもの時の非常に倫理感みたいなものを、直接、28くらいになって自分の中で生き返ってくるんですね。いちいちそういうものに触れるんですよ。

立花
 そうするとそういうその、自分の中でずっと眠っていたりなんかしたそういう部分によるものと、それからその自分の、外にいる、ああこんな人がいるという、そういう発見と、その両方の作用というものが。

大江
 そうですね、その2つがあったんです。その、そう言われると、こういう質問になるんじゃないんですか。すなわち、内面から自発してくる倫理感と、外面に、倫理的なものが外在化しているような人物と。そうすると第三にですね、上にある、ね、神なら神というものがあって、倫理感というものを否定してくれる存在があると。そういう、人間の生き方のシステムがあると。宗教に入る、キリスト教に入れば、そういう神がいつも、僕を見張ってくれていてですね、自分の生き方というものが決まる。苦しむことはない。そうすると、例えば、子どもが将来その植物的人間になると言われたんですけど、そういう子どもと一緒に生きていくことはまあ僕自身そんなに、苦しくないと思うけども、僕はその、友達の妹と結婚して、その友達の妹を幸福にしてやろうと思ったんですね。そのー、高等学校の2年生の時に。ばかげたことですけれど。ばかげた発想だと思いますが、なかなか人は幸福にならないものですが。ともかく(笑)その人と結婚したわけですから、まだもう、娘さんみたいですからね、少女みたいなものに見えました、僕には。その人を、障害を持った子どもに一生結びつけてしまうことは、僕にはできん。やってはいけないんじゃないかってなこともあるわけですよ。もし宗教に入ればですね、神様を信じて、この子どもと生きればいいんですから、神のためにいろいろ僕が苦しむことはない、とも思ったんですよ。しかしね、あの生き方の上で、自分自身の中の、内発してくる倫理感のようなものは、信じると。1ですね。2は、それが実際にえー、それをそのままそのような人間として生きている人に学ぶということをしたいと。2ですね。その2つ、1と2の条件で生きたいと思ったんです。それから、一番上の大きい倫理のシステム、神なら神ってものがある。教会に入る、教団に入るということはしない。同時に、日本共産党に入るということもしない(笑)。日本社会党に入るということもしない。そういう、集団に属することはしないで生きていこうというふうにだいたいその時思ったんですね。

立花
 大江さんのこう、ずっといろんな小説を読んでいると、決してその宗教に入らないけれども、その、非常に宗教に近いところ、で、心がこう揺れ動いている部分ってのがありますね。それで、なんかその、具体的にほんとにその、神様そのものじゃないけれども、なんかこの、人間のこの世界の上にあるトランセンデンタルなものというかね、何かそういうものがある。つまり、この、なんていうか生の、実生活のリアリティだけがこの世界じゃないみたいのがありますね。そのへんはどういうあれなんですか。その、そして、あ、この人はもしかすると、ちょっと間違えたら、ほんとに宗教の世界に入っていたかも知れないと思われる場面がずいぶんあるんですけれども。そのー、大江さんがそこ、潔癖にそっちへ絶対に行かないぞと引き留めているもの、それは何なんですか。

大江
 それをね、今日もちょっとお話ししようかと思って、整頓したりもしていたんですが、僕はですね。二つの傾向というのを持ってるんですよね。一つは非常に退廃的な傾向ですよ。対廃的な傾向といってもですね。あれじゃないですよ。そのー…こう…、なん、こう…妙にだらだらとしているというのとは違いましてね、僕は退廃的な傾向を持ってると思うんですね。水に潜っていて、岩がこうあって、その、僕が岩から川へ潜ったんですよね、水に。岩がこうあって、その岩の下に頭を入れますとね、向っかわにウグイが巣をつくっていてウグイが見えるんですよね。それを見るのが好きで、こういうふうに見てたんですよね。そうするとね、こういうふうに頭を横にして入れたんですから、こういうふうになってるんですが、それをもう一回こうして出てこなきゃいけない。そういうこと分かってるんですけど、もう頭をこうしなくてもいいと、自分は、永遠にこのウグイとともに水に沈んでいよう、とね。いうか、こういうふうにちゃんと生き返って、頭をこうやって努力して、生命の方に帰ってこなきゃいけないということをする気がないと思ったんです。そのままにしていましたらね。僕の母がそういう僕を見つけたんですね。僕を引っ張り出して、いまでもここに大きな傷があるんですけれど、頭蓋骨に。そして、僕を生きかえらして、水を吐いたりした。母が僕をですね、ほんとにもう、不浄なものを見るようなもんで、何か汚らわしいものを見るような目で僕を見たんですよ、それがもう非常にああ、こういうのを退廃していると言うんだなあと僕は思った。今でもね、ときどき、その、こういうふうにすれば生命を完全に下降できる、という瞬間に、まあそれはいいやと思うような時が何度かあったんですね。今までも、人生の中で。それで、そういう退廃というか生命体に対してあんまり一所懸命にならないようなところが自分にあるような気がした。それが、ぱっと浮かび上がってきて子どもも死ぬ。そのことは自分も死んでもいいということですからね。子どもが死んだ後自分が生きていようと思わないんですよ。子どもが生まれた時も。だから、このままでいい、いいわい。神は空にしろしめす、かどうかは知らないけれども、自分はカタツムリみたいにここで、死んでやろうと思って。そういう状態があって、それを恐れている気持ちがありますね。

 もうひとつはですね、信仰に入りたいという気持ちがずっと前からある。で、中学校の一年生の時に、あそこへ行って、まだ占領中でしたけど、松山にカトリックの教会があって、そこに、戦災孤児で、戦争で家を、お母さんやお父さんが亡くなった子どもが、収容されて、キリスト教を習っているっていう、あの神牧師を呼んだものですから、僕はそこに入ろうと思って家出しましてね。歩いて行ったんですよ、松山まで。そして、途中で、群中というところで、お巡りさんに言って、家出してきたんだけども、教会に入りたい、教会に電話して下さいと頼みましたら、お巡りさんが電話して、あそうですか。なんか笑ってました。で、教会に、あの電話したらば、一人子どもが来て、私はその、キリスト教徒になりたいので、今家出して、教会に入りたいと思って、群中まで来ています、て言ったらば、牧師様が、神父さまでしょうかね、神父さまが、このように答えられた。僕に言ってくれたんですね。「そういう悪いことを考えるのはやめて、家にお帰りなさい」(笑)。僕は家に帰った。それと20の、駒場の時もやっぱり同じようなことがちょっとありまして、修道院に入りたいと思った。それは、そういうことがあるんですけども、ですから、二つを言えば一つは生命みたいなものに非常に、こう本気にならないときがある。そういう退廃が一番駄目だと思う。それから、もう一つの、信仰に入るというのもどうもやらない方が、いいんじゃないか。信仰に入ってしまうと自分はなくなる、ま、そういう人間だっていう気がしますね。

立花
 今の運命の話にしても、あの、いくつかの場面で やっぱりなんか今おっしゃったような意味での 「退廃の淵」まで行っちゃうということがありますね。 それでその度にこう、戻ってくる訳ですけれども その戻ってこさせているもの、ですね。それは何なんですか?

大江
 そうですね、それを今考えていましてですね、 というのはもう、61歳ですからね。 ま、ほっときゃあ 死ぬようなもんですよ、老人というものは。 あのというのは、僕が今からネ、学校まで行って優秀な学生諸君の 前で立花隆にいじめられた、なんて心の傷をおって(笑)、 ましてこんなことをするでしょ。 すると僕、御歳暮でもお酒を山のようにもらうんですから。 御歳暮じゃなくて御中元ですか。それを飲んでいるうちにだいたい 死ぬと思いますね。ですから、実際、老人というのは、生きようと 思って生きているんです。ですから老人をみんな苛めちゃ 駄目ですよ(笑)。生きようと思って生きているんですから。 皆さんは自然に、赤チャンなんか死なないで生きているんです。

 例えば僕、小説をもうやめればと思っていたんですね。 59歳まで小説を書いて、60歳から小説をやめるという 決心をしていました。ですからそういう生活の方針も立って いたんですが、それはあの、今まで自分がやらなかったことに こう‘in through’と言ったらいいんですか、そこにどんどん 入り込んでしまう、ちょうどそれを「退廃する」というんですか、 そういうことをだけしたい、そういうことをして、生涯を、 後の残りを暮らしたいと思ったんです、生き方としては。 だからあの、スピノザという人をだけ読む。あれは非常に面白い ですからね。ずっと読んでいく、他のことは考えない。 そしてあの、えーっと、すなわち死ぬまで仕事はしない、という ようなことを考えていたわけです。一番最初の誘惑です。 そうするとあの、二年間、まぁ、して二年間になりますけど、 本だけ読んでますとね、実際非常に良い気持ちで読んでて、です けども、ある時やっぱり、何て言うんですか、ある種の‘構造’ みたいなものが見えてくる訳です。こういうものを書こうと、 こういうことを考えていこうと。そうすると、そのモデルを作って 考えていくとですネ、そうすると僕としては、言葉としてものを 考えるということは小説ということより肝要ですね。 それで、どうしてもそこに戻ってくる訳ですね。ですからその、 何が自分をそういう風に引っ張っているのか分からない、 と思っているんですね。

 ところが年をとった知識人の仕事を見ていると大抵晩年です。 みんなそのそういうところがあります。そういう例えば、あの、 先程も言おうと思ってたんですけれども、あの今僕はE.P.トムスン という人の本を読んでいますが、あのここに今持っていますが、 E.P.トムスンというのは歴史を描いている方から見れば、 よくご存知のはずで、『イギリスにおける労働者階級の メイキング』、まぁ、「発生」というわけですかね、という本を 書いた人です。17世紀、18世紀、もちろん産業革命ってやつは あの、労働者ができる環境というものができあがっていくわけ ですね。上の方から、仕組みとしては。ところが、そこに働く 人間が何故労働者意識というものを持つか、で、労働者の倫理感 というものを持って生きていくようになるか、すなわち 労働者階級というそれまでなかったものがどのように完成したか、 メイキング――つくられたか、ということを書いた本で有名な人 ですね。それから、美術をお好きな人でしたら、ウィリアム・モ リスの立派な評伝を書いた人です。

 E.P.トムスンという人は不思議な人ですけど、普通、歴史家って イギリスの歴史家というのは絶対、文学から引用しないものです ね。文学から引用するってことは野蛮でしたけど、カール・マル クスとそれからE.P.トムスンは文学から引用するというのが非常に あるくらいで、例えばカール・マルクスの『ブリュメール』なんて 良く分かりますが、文学からどんどん引用してる。そうい うことで要するに、文学というよりはもう、好きなことを取り出す という点で面白い人だったんですが、この人はもうこの前死にまし たが死ぬ二十年くらいはずっと、反核運動を、核兵器反対運動とい うものをリードした人です。ですから、ENDというのがありますが、 えーっとヨーロッパの核廃絶ですね、ヨーロッパの核兵器廃絶って いう運動をやって、そこに東ヨーロッパの反対運動の方達ですね、 政府に反対する人達の運動を少しず集めて来て、それに期待を与え てヨーロッパの核兵器反対運動とジョイントを作った人です。 彼は、あるいは私は信じていますが、例えばポーランドとか、 チェコスロヴァキアとか、そういうところの、ルーマニアとか、 全体のソヴィエト体制が崩壊するような、するに至るような東ヨー ロッパの民主主義的運動というものはこのENDという運動と確実に 私は結び付いていると固く信じていますが、で、現代に至ってい る。

 そして、ところが二年前だったかに亡くなられましてね。 そしてそれから亡くなられる直前に二冊の本を書かれたんですね。 一つはあの、何だったかなぁ、税金の本、問題かなんかの歴史につ いての本だったと思うんですが、もう一つはウィリアム・ブレイク について書いた、----彼はウィリアム・ブレイクが非常に好きだっ た人ですが、それで本を書いて、そして何年か後に死んでし まった。で、今年、廉価版といいますか、ペーパーバックスが出た ものですから、ここに持ってますけれども、“Witness against the beast" という、人間を踏み越すような、人間を阻害するような、こう、 悪魔のような大きい力としての国家権力、それを対象にして表現し 続ける人間としてウィリアム・ブレイクを捉えたというんですね。 それを見ますとね、彼は歴史家として非常に大きい仕事をして、 それから平和運動にいっても大きい仕事をして、そして70歳位に なってブレイク----ウィリアム・ブレイクについて一冊の本を書く 訳です。それから勿論、16世紀、17世紀のイギリスの、先程 言った少数派ですね、そういう人達のことを研究して17世紀のキ リスト教の少数派グループで、非常に抗議をするグループが あった、そういう人達の家庭的な伝統が18世紀まで届いていて それをウィリアム・ブレイクは自分の家庭で学んだ。だから彼は イギリス国教会というものに対して常に抗議するような、根本的な 抗議者であった、というのが彼の本の内容としては。そして そういう本を70代になって書いて歴史家が死ぬということも 面白いでしょ。同時に彼はウィリアム・ブレイクのことを説明して いるんですよ。

 ウィリアム・ブレイクはですね、アンティノミアン というんです。アンティノミアンというとあの、あれですね、 反律法主義者。キリスト教で、キリスト教のいろいろな法律に 反対して、救い主だけ大切だと主張する人、それをアンティノ ミアンというでしょ。それから皆さんの知っている単語では アンティノミーっていって二律背反ということですが、何故 二律背反と反律法主義者が言葉として同じかというと、それは ‘anti’と‘nomos’ですね。‘nomos’すなわち「法律」、‘law’ 法律に反する、法律に矛盾する、規則に、原則に矛盾するっていう 意味で、それから‘law’の複数形‘laws’に、すなわち複数として の‘nomos’に反対するという意味で反律法主義者っていうんです。 その反律法主義者であるところのブレイクが、どのように社会の 不正なんかに反対するナショナリストというか、合理主義者でも あったか、ということを説明して、結局その二つはブレイクの中 で、星座のように並んでいたけれども、そしてそれがお互いに照 らし合っていたけれども、どちらかに統一する、進展摂取という ことが行なうことが出来ないでブレイクは死んだんだ、というこ とを彼は最後に書く訳です。そしてですから、自分達がこの違っ たいろんな要素を持っていて、そしてそれが両方とも重要で、 それらを統一することは出来ないけれども、星座のように自分 の世界で光っているということを見て、それを見極めて死ぬ奴が いるんです。それがブレイクだったということを彼は言ってです ね、トムソンは自分の本を結んでいる訳なんです。そして本の 一番最初のページにはブレイクの有名な言葉ですが、「イエ スキリストはunbelieverであった」――unbelievableとかいうん ではないですよ(笑)――神を信じない人間であったという言葉 を引用して始めているんです。70歳くらいの歴史家が、最後に 自分の中に、どのようにしても、そうしておいては非常に否定的 なものと、ある種非常に精神的なものというかトランスアンダン タールなもの、あるいは魂的なものというものがあると。それを 統合することが出来ない訳ですよ。しかしその二つってものがあっ て、その二つを見つめながら自分は生きていく、それが自分の晩 年の生き方だと本人が言い、しかもそういうことを言ったブレイ クという人を解釈するに使ったような方法が、私は非常に面白い と思っている。

 でそれがね、私がやることはやりたいと思ってるとはそういうことで、私はトランセンデンタルなのはあると思うんですよ。僕たちの魂、というか僕たち精神の仕事として本を書いてると思いますが、感情とか、知性っていうの全部含んだ上での精神の仕事をしてると。ところが、その精神の仕事だけでおさまりきらない精神の度合っていうか、精神的な構造でおさまりきらないものもあると。そこを乗り越えたものがあるような気がするわけですね。それだけでもどうもしょうがないし。で、そのことをこれ今現代あるぞーっていう精神的な構造を乗り越えて来たあるものがあると。それが自分にとっては重要であるということを確かめるような仕事をしたいと思うんですね。その確かめ方が2通り僕はあると思う。一つは、こう教会に入るっていうか、神様っていうことを教えてもらえば、神様っていう超越的なものがあるわけですから、それを信じて、それで自分を、矛盾っていうのを全て、統合してもらうことが出来るっていうことは思いますね。そういうことをみんな、福祉者とかしてらっしゃるんじゃないかな。で、僕は一番最初に言ったように、自分の側からやりたいんですね。自分の側がこう乗り越えていきたい。乗り越えることはできるでしょ。乗り越えるべきものもある。それから乗り越えるものの向こうはわからない。で、乗り越えた向こうから手を伸ばして引き上げてもらおうとは思わない。自分は、一人でやりたいわけですね。そしてそれは統合する星座があって、どうも星座のようにですね、constellationっていうか、constellationのように恒星、星座のようにはっきりとあって、その位置関係がわかる、自分の感情、全体の構造がわかるけれども、それは相似しかねない、相似することができないっていうのが大体僕たちの人間の考えることで、しかし、相似するものがあれば、それがその魂っていうことじゃないか、相似されたものを魂の力とか、魂の、えー、癒しとかっていうようなものじゃないだろうか、それに立ってる、魂に立ってる、裏側の視点っていうのはあるんですね。

 それがそれだけ重要になったのはここ十年ほど前からのことだと思うんですけれども、これが面白いのは二十歳のときにですね、ちょうど二十歳の時に僕はフランス語で始めてサルトルの『存在と無』っていうのを読んだんですけど、でそのtranscendenceっていうのと、超越ってものがありますね、それからprojetっていうの、自分の前に出して、投げ出す、英語で言えばprojectとかね、投げ出すっていう。自分っていうものを前に投げ出していくっていうことでもって人間は生きていくっていうサルトルの根本原理みたいなものを学んだっていう、二十歳の時に。それから四十年も立ってみて今考えてみると、そのサルトルの表現っていうのはとっても近いと思います、自分を投げ出すという。しかし、投げ出すといってもですね、一つ方向が決まってるわけじゃなくって、非常に多面的なこう、ヴィジョンが見えるところに自分を押し出したいという気持ちを持ってる。そういうことを考えて自分はいつも矛盾だと思ってるんですけど、いくつかのこの核兵器の問題、そして障害を持ってる子供の問題、将来一体どうなるかとか、僕の文学の問題もあります、そういう問題が矛盾しあって対しあっているんですけども、その中でそれをどうも統合できない、だいたい証みたいなものなんですけれども、出来ない程度の全体を見渡す視点みたいなもの、それは星座でもいい、並んでいくつかで死んでいくっていう、いきたいというふうに僕は思っていましてね。

 私の友人、私の偉い、まあ、立花さんは偉いわけですけれども、偉い友人がいるんです。私はすでに巡り合って、偉い先生と偉い時に巡り合ってきたと思います、人生で。それはまあみんなよかったと思いますけれども、エドワード・サイードっていう人がいまして、パレスチナ人ですね、そして工芸大学の先生をしていますが、『オリエンタリズム』って本を書いた人です、あの人は日本に去年来ましてね、一度だけ対談したんですね、『世界』っていう雑誌の対談かなんか。で、そこで、彼は白血病なんですが、そのことを初めて公開する場所で言ったんじゃないかと思いますね、自分は白血病であったと。そうすると、どうしても乗り越えられない死の危機っていうものに出会うと、物の見方がはっきりしてきたと。そして、それは一つはどうしても解決できない現実問題っていうものがあって、しかしそれに一番こだわっていなきゃならないっていうことがわかった。それはむしろパレスチナの問題だとかいった。もう一つ自分たちは時代精神に即して生きているんだけれども、二十世紀の人間っていうと、そこがそういうことを研究しました、そういうことを書きました、しかし、それを越えた超越的なもの、トランスサンダンタルなものがあって、それも重要だということもわかってきた。で、その二つが、水と油のように混じり合わないものが二つあるんだけれども、統合できないけれども、それが二つそこにあるということを見つめて、自分はこう生きてきたよと、そういう自分の生き方及びこれからする仕事を、こうも伝えると自分は呼ぶと言ってましたね。

 彼は、音楽専門家ではないけれど、サイロードの音楽、非常に詳しいと言うか、ベートーヴェンの後期のスタイル、後期の弦楽四重奏を聞いてると、どうしても、解決できない不協和音というというのがありますね。あの不協和音なんかを結局あの弦楽器のベートーヴェンだったらば、不協和音にしなくて、一つの和音の組合せで解決できた問題じゃないかと思う。しかしどうしてもあそこに解決できない問題、死なら死の問題のように、あるいはパレスチナの問題のように、そういうどうしても解決できない問題っていうものを自分の表現の中に取り込むってことが、やっぱり死っていうことを目の前にして伝えるってことじゃないかということを彼は言ってるんです。そういうことも先ほど言ったE.P.トムソンの考え方、ウィリアム・ブレイクの考え方、そして、サイードの生き方っていう点で一致してるんじゃないかと思いますね。で、自分の問題点を出来るだけ明らかにしていくという、それを統合してしまうことは出来ない、解決してしまうことも出来ない、しかしそれを星座のようにはっきりした位置に定めてですね、それを解決しようとか、それから乗り越えようとしながら死んでいく、そういうその乗り越えようとする動きってものと、魂っていう問題を考えるということとは、どうも同じことのような気がする、というふうに思ってるわけです。

 それで、立花さんからもらった宿題みたいなのを見ると、あなたの魂のことをしたいっていうのはどういうことかって書かれていて、それは積極的にですね、積極的な問題として、こう、まあaffirmativeというと、しっかりと問題を提示するように答えよという意味だと思いますが、そういうふうなだけそれは意味があると思うんですが、それを僕は推察できない、よくわかんないんです、自分が魂のことをするっていう、何をしたいかわからない。しかし、魂のことをしていないってことはよくわかります。自分はこういう小説を書いて、このまま書いてあと十年小説書いても、魂のことをしていることにはならないっていうのはよくわかる。危険な感覚がなくなっちゃいけないっていいます。要するに、こういうことをしたら危ないぞっていう危険な感覚っていうのがあるんですよ、人間には。それの感じがそれですね。だから今のままでいっては魂のことをすることにはならないっていうことがよくわかっていて、で、そういうことさけていきますとね、ある種の道っていうのが見えてくる。その道ってのはどういう道かというと、先ほど言ったような重要な問題点を、統合できないようないくつかの問題点を、星座のように自分の世界に散りばめて、道をはっきりさせてるね、それを見つめていくっていうことじゃないかと思っています。

 今「星座」っていう言葉なぜ使ったかといいますと、constellationっていう言葉、それはウィリアム・ブレイクが使っているし、E.P.トムソンが使ってるから使ったんですけども、河合隼雄さんっていう心理学者と一回討論会を一緒にしまして、会談を。心理学者の場合はですね、えーと、患者たちが、患者がやってきて自分で苦しい問題がいくつかある、そのいくつかのABCDって四つの苦しい問題を、解決してやることは出来ない。しかしそれを、AとBを組み合わせて、CとDを組み合わせてっていうふうに構造化して、弱いものを消していくっていう、消去していくことも出来ない。全部同じ平面にあって、しかしそれをですね、はっきりした場所に位置付けてあげるっていうことが心理治療の一番大切な出発点であるということを言われました。ただ、前にも、心理治療の、ニューマンだったかな、本にも書いてありますけれども、小説の方ですね、ユングからとってきて、constellationっていう、コンステレイトする、stellaですね、星をある場所におくくらい重要だ、それが、僕が今考えてる星座っていうことと同じだと思うんですね。

立花
 それで今度の小説を三人称でやってみたいというのは?

大江
 自分が小説を書こうと思った時って、あの、先程、僕の大学、東京大学の生徒で僕の本を読んだ人が幾何級数的に減っていって10冊読んだ人が一人しかいなくて、20冊読んだ人って尋ねたら僕が手を上げてやろうと思ってたんですけど(笑)、小説をずっと書いてきて自分のやることはもう終わったと思いましてね、それで小説は二度と書かないつもりで、でも約二年半ほど仕事をしていないうちにほんとに小説を書こうという気持になってきたんです。それが今、立花さんがおっしゃったように自分で問題をコンステレートしたいなと、自分の重要な問題を位置づけたい訳です、死ぬまで持っていく問題をね。ところがあの、日本人だとですね、どうしても統合していこうという感じになる訳です、僕の場合は。さっきのだってそうですよ、非常に弁証的ですよ、これは。ですから、彼が乗り越えると言った一つを乗り越えるということは、一つを抜かして選んでもう一つの方に行くわけで、直線なんです、彼は。そうじゃなくて僕が言っているのは最初の問題をもう後十年間自分が生きていってですね、五つの問題なら五つの問題を統合しないで持っていて、それぞれを明確にしたい。そのためにはですね、自分の方法としては小説がいちばんいい。それも一人称で語っていくっていうんじゃなくて三人称がいい。訳の分からない人物を何人か登場させることによって幾つもの問題を一度に顕在化させるって言うか明らかにすることが出来るんじゃないかと思うんです、まだ分かんないですけど。それをやってみようと思ってるんですね。

 それで、僕が考えてることはですね、子どもが生まれた時にですね、二週間だけ生まれてきて生きて意識もなにもないまま、あるいはあるかもしれないけれども、死んでしまうということ、そうすると僕が一番恐ろしいと思ったのは生まれてこなかったのと同じだと思ったんです。生まれてこなかったのと同じようになるということが非常に恐ろしいと思ったんです。それでどんなに恐ろしいか、どんなに寂しいかと思った。それであの、僕が考えたことはですね、自分が二十八年間生きてきてこの問題に立ち向かうことをしなければ、生まれてこなかったのと同じだと思ったんです。今も考えることは同じで六十一年間生きてきたんですけども、六十一年間生きてきてまたどうかして死んでいく。で、その時に生まれてこなかったのと同じだ、という気がするんじゃないかと、それが僕の一番の根本の恐怖なんです。これだけ生きていろんなことをした、小説を書いた、ところが考えてみるとどうも生まれてこなかったのと同じだと思ってですね、非常にがっかりして死んでいくのじゃないか、という気がしましてね、それを意識しているある瞬間というのは地獄ではないかと思うんですよ。どうもそれが恐いっていうか、どんどん納得がいかなくなって、それで自分が生きてきたってことは意味があったということを知りたい。

 その、意味っていっても何とか賞をもらったとかじゃないですよ、僕が考えているのはですね、スピノザという人は自然全体が神だといってるんです。我々全体が常に神なんですね。それが一つ、そしてもう一つは神の意識、というものがありますね。神があって、そしてその神が大きい意識をもっている。その神の意識というものが全世界を意味してもいるという、自然とかもですね、ナテューラ、ナテゥランていうものを意味してる。それでその時に僕たちがちょっと意識を持って、自然の一部である我々が意識を持つっていうことは、その意識は神の全体的な意識の一部分であるっていうのがスピノザの考え方なんですね。僕はそれがいままで出会った中で一番美しい意識についての思想だと思うんです。よく分からないけれども、よく分かっているとは言えないけれども、それで、僕としては死ぬ前に、ああ、自分のこの意識は、全世界が、全自然が、神であるようなある存在が意識したその意識の一部分である、自分がですね、自分の意識がその大きい意識の一部分であるということを自覚する、納得するということがあればいいなあと、そのことが目的です、これからの十年間の。その事を知るためには自分の持っている問題点をはっきり整頓して、星座のように並べて、それを眺めていくようにしたい、それを小説の形でやってみようと思うんですね。ところが小説を書く前は何かを盛り込んでやろうと、何かを盛り込んだものが出来ると思ってるんですね、小説書く時は。書く間ですか、ところが書いてしまうと、カスみたいなものなんですね。これではね、自分が求めていたものじゃないと思う。それをずーっと繰り返してきて、もう小説ってのはそういう方法じゃないんじゃないかなって。

立花
 今はまだリジョイスといって死ねないけれども、いずれリジョイスといって死ねるようになるだろうと?

大江
 今の話は僕の小説を二十冊以上読んでいない人には何にも分からない(笑)。リジョイスって「喜べ」って言葉を死ぬ前に言ってやろうと思っていたわけです。そしてそう言う人間を書いて、小説を終わった訳です。結局、自分を超えたものというか、自分を超えたものの意識と自分の意識とが一致する、僕は非常にちっちゃいものですよ、大きいものに比べれば。大きい概念という訳じゃないと思います、唯一あるものと自分とが一致するってことを非常に考えて、自分の方法で確かめていって文章にも書いて、それで納得するというのがリジョイス、ってことじゃないかと思うんです。ところがあの、ニエンズという人がおりました。皆さん御存じの今大きい問題を解いてるアイルランドの詩人ですが、彼が"choice"っていう『選択』っていう詩を書いていてですね、人間には二つの道があると、一つは信仰に入ること、もう一つは仕事をする事だ、って言うんですよね。作家なら作家の仕事をする、仕事をすることを決めた奴はね、彼は"heavenly mansion"、“空にある館”というもの、天国っていうか、"heavenly mansion"ってものはあきらめなきゃいけない。そして暗闇の中で怒り狂って、そういう晩年を、そして死を覚悟しなくちゃならない。それが人間の選択だ、と彼は書いてるんです。そしてそれから三年くらいたって死んだんですけど、きっとそのようにして死んだんだと思いますが、全部小説家っていうのは"heavenly mansion"っていうものをあきらめてですね、暗闇の中で歯ぎしりしている、そういう人間なんじゃないかな、っていう気もするんですね。それでも仕事をする人間かもしれないとは思います。しかしね、ぼくがずっと仕事をやってきて最後に歯ぎしりしないで何か一致したということを言いたい気がするんですよ。

立花
 かなり時間がおしてきてるんだけど、多分、あの、学生の中にもせっかく大江さんが来てるということで何か聞きたいと思ってる人が多少いるかもしれないので、ちょっと、何か質問があったら、答えてやって下さい。

学生
 ええと、二点、ノーベル賞と文化勲章の問題について質問したいことがあるんですが、今日のテーマである二十歳からいままで約40年間の思想の変遷ということを念頭に置いてお聞きしたいと思います。まず第一点、ノーベル文学賞受賞された後に文化勲章を拒否されるわけなんですけれども、そのときの選択を支えた論理は何でしょうか、あるいはすでに論理はなかったんでしょうか、これが第一点です。で、第二点として、私は文化勲章を拒否したことは当然で、しかもノーベル賞を拒否するのはますます正当であったと思っているんですけれども、ノーベル賞ががある種文化帝国主義的な側面があるわけですね。それで、山口昌男さんの用語を使うと、「あくまで中心が評価する周辺の文学に与えられる賞である」。で、そういう側面について現在の世界におけるノーベル賞の意味というのを大江さんはどう考えるか、この二点をお聞きしたいと思います。

大江
 あの、第一の方は非常に単純で、僕は一番最初に申し上げましたけど、天皇様の賞というものはもらわないで死んでいきたいと、子供の時から思っています、そして現在も思っています。そういうことで、文化勲章っていう、まあ拒否する、僕はその、僕の原理ですから、それが。まあ、天皇制と全く関係ないということはいえないだろうと思うんですね、それが。天皇様が下さるわけですから。それが最初の質問ですね。第二の問題点ですが、山口さんも尊敬する友人ですが、中心と周辺という捉え方も今の質問にあるように固定化している、と言いますかね。それ自身がダイナミズムを欠いている考え方だと私は思わない。中心と周辺というものが常に流動している概念、その中で非常に流動しているものの中で一つの形を見つけていく思想として山口さんが展開し想像して下さることを私は望んでいるわけです。まあそれは個人的な願いの問題として。

 さて、ノーベル賞は世界の中心が認知する、して、例えば周辺に与えることもあるでしょうかということができるだろうかと、私はできると思います、一面でまず第一には。すなわち、例えば私の友人など、もう三十歳の時からの友人ですが、ウォレ・ショインカといいますが、非常にいい劇作家で、ナイジェリアの劇作家です。去年日本に来ました。彼は今から十年ぐらい前にノーベル賞をもらったんですが、アフリカで初めてのノーベル賞をもらったのは彼でした。二度目にもらったのがナディン・ゴーディマだったと思いますが、そのときにですね、彼は受賞の時の言葉の中でこういうことを言った、すなわち、自分たちアフリカ人がヨーロッパの人間を選んでですね、それに自分たちのノーベル賞を与えるという方がもっと意味があるだろうと。そして自分はアフリカの人間として初めてこの賞をもらう人間だということをいったんですが、私はその点で、今の質問の方の考え方とウォレ・ショインカの考え方は一致すると思います。

 第二番目ですが、私はノーベル賞を弁護する義理もありませんが、私はですね、例えばアフリカ、私は三十年前からウォレ・ショインカと一緒に仕事をしてきた人間ですが、ノーベル賞がウォレ・ショインカに与えられるまで、みなさんは例えばウォレ・ショインカの仕事を知らなかったんじゃないかな。彼はですね、彼の有名な芝居の中で、「私たちは死んでしまった人間のことを忘れよう、生きてる人間のことすらも忘れよう。これから生まれてくる人間のことだけを考えて仕事をしよう」という有名な言葉がありますが、そういうウォレ・ショインカの作品も海外ではノーベル賞をもらうまで読まれなかった。それからもっと文明開化の国ですが、この人も私は十年くらい前から知っておりますが、シェーマス・ヒーニー、アイルランドの詩人の仕事なんかもあまり、最近日本では全訳も出ましたけれど、知ってる人は少なかったんじゃないかな。それも彼はノーベル賞を去年もらって、シェーマスという言葉とジェームズという言葉が語源的に同じだということすらも僕たちはそれをたいていの人が知らないんじゃないですか、アイルランド人については。そういうこと、あるいは大江という日本人のことも全く外国では知られていないんです。いくらか読まれているんですよ、もうフランスなんかどこでも翻訳があって、で、三島さんは一番知られている作家ですけれども、それも文学によって知られているより事件の結果、阿部公房という人もそんなに知られているわけではない。

 私は日本文学というのは比較的周辺の文学ですが、それが世界に知られるための起源になるという点でノーベル賞というのはいいと思います。その点で先程の一点、確かに中心が与える賞である第一、それは認めます、第二点で、しかし意味があるということを第二点として言いたい。例えばこの一年間で私の本の翻訳が150種類も出版されたんですよ。すべて出版されてるんです。ですからそれではね、意味がないとはいえない、日本文学が世界に知られる点で意味があると。さて第三点で、ノーベル賞は中心の賞だろうかということをもう一回反省してみようとすればですね、私はノーベル賞を中心の賞だと考える必要はないと思いますね。ノーベル賞の文学賞の場合それを決める委員会というのは二十人くらいの小さな小さな委員会なんですよ。その中の一番若い選考委員は、まだ三十代のはじめの女性の詩人です。僕たちは誰もその人達の名前を知らない。そして彼らはいわゆるロイヤルアカデミーというふうにいいますけれども、スウェーデンの王立アカデミーとはすっかり違った個人の団体として作られた組織としてそれは運営されているんです。下さるのは王様が下さいますけれど、選ぶ状態は非常に個人的なシステムで行われていまして、それから我々が、ノーベル賞を獲得する人がですね、自分が中心の文学に参加したと思えばそれは滑稽なことで、一番最初に言った山口昌男さんの批判というものが全く当たることになると思います。

 しかし私の場合で言えば、ノーベル賞というものを思い出したことはもうほとんどないですよ。二年もたてば。そして、自分の仕事がそれによって方向付けられるということも、それは私においてないし、ナディン・ゴーディマにとってないし、ウォレ・ショインカにとってないし、シェーマス・ヒーニーにとってないんじゃないですかね。その点で中心の評価ということよりニュートラルなものとしてノーベル賞を考えていいと私は思っています。じゃあ何でもらうかというと、お金をくれます(会場笑)。私は今まで、年末になって生活の心配がなかったことって今まで61年間なかったですよ。小説家ってそういうもんですよ。ところがもう銀行からはお歳暮までもらうようになりましたが(会場笑)、あと十年間は暮らせるんじゃないかな。それで今の問題に熱中してみようと思うんです。それがもしですね、一つの周辺の作品として何かいいものができれば、それは中心に対する周辺の勝利と言うべきではないかというふうに私は思うんです。