環境問題


ゲスト:石弘之先生

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ゴミの文明論

 人類が五千年ほど前に定住生活を始めてから、ゴミ問題というものが解決されたことはない。例えば古代ローマでもゴミ問題は深刻で、不法投棄されたゴミが山を形成していたという。当然ゴミに関する格言も多く、「夜間外出する際には上を向いて歩け、さもないと落ちてくるゴミで怪我をする」といった言葉も残っている。これは、古代ローマにおいてゴミが窓から投げ捨てられていたことを表している。また火山の爆発によって埋もれたポンペイは、上水道や水洗トイレといった設備はあったものの、ゴミの処理施設は見つかっていない。ポンペイは城壁に囲まれた町で、ゴミは全て城壁の外に堆く積まれ、スロープ状になっていた。火山の火砕流は本来なら城壁で防げたはずなのだが、このゴミの山が町の中へ火砕流を引き入れる役割を果たしてしまった。

 中世においてもゴミの処理は問題となっており、特に18〜19世紀のパリやロンドンが悪臭に満ちていたのは有名である。当時のパリにはトイレがなく、排泄物は窓からかけ声をかけて投げ捨てており、逃げ遅れるとうっかりそれをかぶってしまうはめになった。。王候貴族においても同様で、舞踊会のために着飾った人でも茂みで用を足してしまうのが普通であった。ルイ14世が郊外に豪邸を建てたのは、パリがあまりにも臭かったためと言われる。

 文化によってゴミ処理をどうするかは異なるが、ゴミ問題を解決に近付けた世界史上でも稀な例は中国と日本に見られる。この二国は水田農耕文化を持っており、排泄物は稲の堆肥として使用され、見事な循環性を持っていた。

ダイオキシン問題

 日本は全ゴミの75%を焼却処分している。これは世界レベルから見ると異常なまでの高率で、アメリカでは2割以下、ヨーロッパでは焼却を禁止している国も多い。なぜこのような事態が起きているのか。一つには輸出量と輸入量の不均衡があげられる。日本では年間7億トンの物質を輸入しているが、これは他の国より抜きん出て多く、逆に輸出量は1億トン程度である。つまり、年間差引6億トンもの物質が過剰に国内に溢れることになるのだ。参考に、アメリカは輸出が3億トンで輸入は4億トン、イギリスは各々4億トンと3億トンである。これだけ見ても日本は本質的にゴミ問題を抱えていると言えよう。さらに日本は国土が狭いため、ゴミは焼却せざるを得ない。物を燃やすと大抵ダイオキシンが発生するのだが、焼却が多量に及べばそれだけ多くのダイオキシンが発生するのは当然である。60年代のベトナム戦争で米軍が枯葉剤を使用し、ダイオキシンが出て問題となったが、実は今の日本ではそれを上回るダイオキシン汚染が起きているのである。

 日本にはダイオキシンの環境規準がない。やっとゴミ処理場労働者に対して出来た唯一のダイオキシン規準では、1日の摂取量の限度が100ng(ナノグラム・10-9g)と定められている。ところが、労働者よりも赤ちゃんの方がダイオキシン摂取量が多いのである。これは母乳を通じて母親から子供に汚染が移行するためで、逆算すると赤ちゃんは1日150-200ngのダイオキシンを飲まされているのだ。この20年間で日本人の中に爆発的にアレルギー症例が増えた理由はこのダイオキシン汚染とも言われており、特に完全母乳第一子に多い。これは、汚染を免れるために女性は体内の汚染物質を母乳を通じて排出するためである。

"Our Stolen Future"

 "Our Stolen Future"は「第2の『沈黙の春』」とも言われる本であり、私たちの作り出したホルモン様物質が私たちの生活に与える影響について問題を投げかけている。ここでは例としてフタル酸エステルを考えてみよう。フタル酸エステルは新車のシートなどの柔軟剤としてよく使用される。新車独特の匂いを覚えている人も多いだろう。この物質は、体内に入ると女性ホルモンと同じ作用をする。その結果、ここ二十数年でかなり広範囲において男性の精子の密度が減るなどの影響が出ている。

 テムズ川では両性具有の魚が発見されている。また、フロリダ州では野性の雄のワニの生殖器が突然縮小するという現象がおきている。このように自然界には既に女性様ホルモン物質による影響が現れはじめており、人間もそろそろ危なくなってきているのだ。例えば、日本では女性の子宮内膜症が1割近くという非常な高率で発生している。この病気は不妊になる可能性もあり問題となっているが、これも女性様ホルモン物質の働きであると言われている。

工業化と汚染

 環境汚染で最初の兆候が目に見えて現れるのは工場である。しかし水俣病はチッソの工場に始まったわけではなく、昔から有機水銀汚染というものは存在した。17世紀のヨーロッパでは水俣病によく似た症状の職業病が報告されている。例えば、『不思議の国のアリス』には"Mad Hatter"(気違い帽子屋)という人物が登場するが、中世から近世にかけての帽子屋は気が狂って最期を向かえることが多かったという。シルクハットなどを作るときには縮毛をさせるのだが、その際有機水銀がよく使用されたためである。

 工場労働者の次に異常が現れるのは、工場周辺の自然界である。水俣ではカモメが落ちたり、打ち上げられた魚をついばんだカラスが浜辺で踊っているなどの現象が報告された。また四日市では、コケなどの地衣類が消えている。これは高度成長期の日本の工業地帯でも観測されたが、さらに古い例では、イギリスにおける産業革命後にある種の地衣類が消えたことがある。

原子力発電

 ゴミの中で最も処理が難しい、あるいは不可能とも言えるのが、原子力発電所から出る放射性廃棄物である。原発の稼働期間はせいぜい30年だが、放射能を持つ廃棄物は1000年は残ると言われている。今私たちは原子力で発電された電気を使うことが出来るが、私たちの子孫は今ある施設も資源も使うことはないのに、放射性廃棄物などを押しつけられてしまうことになる。これは世代間公平性からすると引き合わない話である。

 前回の講義で話したDU(劣化ウラン)は、建築材に使われたことがあった。アリゾナ州でインディオの公共住宅をDUで作ったのだが、かなりの高率で癌や白血病が発生し、未だにアメリカで問題となっている。

産業廃棄物

 現在の日本で一番の問題となっているのが産業廃棄物問題である。現在の産廃の量は家庭ゴミ(年間5000t)の約8倍となっている。大企業が廃棄物を出す時には正しいゴミが出るのだが、二次三次と処理業者に渡るにつれて暗黒性が増してくる。今はほとんど解消されたものの、リサイクル業者は同和問題や暴力団問題など日本の暗部と密接に結び付いてきた経緯がある。例えば十年ほど前、古紙回収を初めて実施しようとした時に、リサイクル業者が「手を出すな」と脅しをかけてきたことなどがある。日本の産業廃棄物処理は常に日陰に入れられ、そこに陽を当てなかったために現在相当数の「陰」が出来てしまった。

 日本はゴミ対策に世界一お金を費やしており、その額は欧米の6〜7倍と言われている。世界的にゴミ処理は民間が行なっているのに、日本では一部の自治体が行なっている。そこで業者と行政が癒着し、ゴミ処理の独占化が図られ、自由競争がほとんど働かない。

 日本でゴルフ場ブームがあれだけ栄えた背景には、産廃問題があった。日本は山国で平野が少ない。そこでゴルフ場を作るとなると、都市部から山間部へかかる辺りを埋め立てることになる。この埋め立てに使われたのが産業廃棄物なのだ。ゴルフ場の下流で怪しい物質が検出されると言うのは、この埋もれた産業廃棄物のためである。

ゴミ処理の現在

 誰がゴミの処理をしているのか。日本の社会構造の中で、ゴミの処理を押しつけられているのはどんな人たちなのか。これは、調べてみれば実に興味深い問題である。例えば空き缶・空き瓶の分別は、授産所で行なわれていることもある。手を動かせない障害を持った人が、口に棒をくわえてそれで缶を分別しているのだ。チラシや新聞の分別は、かなりの部分が中国人や韓国・朝鮮人といった在日外国人の手によってなされている。阪神大震災の時の長田区は、そういった人たちの住む地区の一例である。我々はゴミを捨てるものの、ゴミ処理業者になろうとは思わない。結局誰かにその仕事を押しつけることになるのである。

 埋立地の夢の島は有名だが、今はその沖に新しい埋立地ができている。ここへ行ってみるとカルチャーショックを受けるだろう。新品ばかりが山となって捨てられているのだ。この埋立地には商品を満載したトラックが次々とやってくる。インスタント食品何万食分、あるいは高そうな革ジャン何十着といった単位である。こういったものを持ってきた処理業者は、新品同様の商品を次々とブルドーザーで潰し、その様子をビデオで撮影している。証拠があれば税務署が損金処理してくれるためである。

 ゴミの山から拾ったものを売っている店がある。これは大森にあって都の清掃局が経営しているのだが、ここで売られる商品を見ていると世の中の動きが分かる。ある時期にはぶら下がり健康器が大量におかれ、またある時期には美顔器が溢れていた。ゴミは人間社会をポジとすればきれいなネガになっているのである。

リサイクル

 かつては都市の近郊にも養豚業者が多かった。ブタの餌には都市の生ゴミが利用され、ブタの排泄物は肥料になり、そこにはリサイクルの仕組みが成立していた。しかし昭和40年代以降都市化が進むにつれ、ブタを飼っている地域も人口が増えてきた。住民からブタの臭いなどに対して苦情が出始め、県や国は養豚団地を作って小規模な養豚業者をそこに集中させた。これはブタを都会から切り離す結果となった。生ゴミは養豚団地に来るまでに腐ってしまうため、都内で焼却処理されることになった。このため養豚業者は高い輸入飼料を買うはめになり、リサイクルは断絶された。また、狭い団地で飼われているためブタのストレスが増える。ストレスを押えるため飼料には精神安定剤が混ぜられるようになったが、この主成分は亜鉛であり、ブタの排泄物をそのまま捨てると汚染防止法にひっかかってしまう。養豚業者は何とかブタの排泄物を下水に流せるよう行政に陳情を繰り返してきたが、これまでははねつけられてきた。しかし最近では、行政の方から排泄物を下水に流すよう頼まれているという。これは最近朝シャンなどの影響で下水が薄まり過ぎ、活性土壌のバクテリアが死んでしまうためである。

 お正月用のしめ飾りの原料となるワラは大部分が輸入されている。また、都内の数少ない稲作農家はしめ飾り用の茎だけを作っていることが多い。今ワラは田畑でそのまま燃やして肥料にしている。これは、かつて肥料にしていたブタの排泄物がもう手に入らなくなったためである。このように、今の日本では循環がどこかずれてきてしまっているのだ。

 日本では自動車の部品の75%がリサイクルされている。残りはシュレッダーダストで微量金属などを含んでいるのだが、そのまま埋めてしまうしかない。この75%という数字を低いと見るか高いと見るかはかなり意見が分かれるところであろう。これと関連して、ドイツの自動車部品のリサイクル率は85%である。これは部品を全部分解し、悪くなったところだけを交換して部品を再利用し、それを新品として売るのである。これをリマニュファクチャリング(Remanufacturing)という。日本国内ではしっかりしたリサイクル体系を確立していない企業も、進出先のヨーロッパではリマニュファクチャリングを行なっているのだ。

 アルミ缶には「リサイクル率90%」などと書いてあるが、本当のところはどうなのだろうか。アルミニウムは再原料化するとかなり質が落ち、0.0数mmという薄さの缶に戻すのは不可能である。再原料化されたアルミは実際は建築資材に回され、再びアルミ缶に戻ることはない。企業の言っているリサイクル情報を鵜のみにせず、リサイクルの虚と実を見抜くことが大切である。

地球温暖化

 近年地球の温暖化が叫ばれているが、実際には温暖化はどのような影響を及ぼしているのだろうか。ここ30年で東京は3℃ほど気温が上昇し、昔の福岡くらいになっている。駒場構内でも、昔に比べ暖帯や亜熱帯の植物が増えた。また昔は珍鳥だったヒヨドリもあちこちで見られるようになった。3℃の上昇というのはおそらく史上最大であり、今後の温暖化のモデルになるだろう。

日本人と他国の環境

 私たちの生活はいかに他国の環境を潰した上で成り立っているのだろうか。例えば今この講義をしている教室の椅子も、東南アジアの森林を伐採して作られたものだろう。よく知られた話として生姜の例がある。生姜というものは畑を駄目にしてしまう野菜であり、また連作が不可能である。生姜は日本人くらいしか食べないが、そのためにアジア各国の畑が駄目になっているのだ。エビの養殖なども、マングローブを大量に伐採したあげく3年程度で切り上げてしまう。ナタデココも日本で大ブームが起こったとき、フィリピンではなけなしの金をはたいて投資した人が多かったが、今はブームが去ってしまい、生活に困窮している人が増えている。ナタデココは発酵食品であるが、発酵するものの排水というのは水を汚染する。また、一昨年には人参ジュースが日本で流行した。人参はもともと地場製品であって国際市場にのるものではない。そのため、人参の価格が国際的に暴騰した。その翌年、オーストラリアなどで日本向けの人参を作り始めたものの、ブームはすでに去っていた。こうした日本人の短期的な身勝手さは、国際的な環境に重大な傷跡を残しているのだ。

これからの50年を

 過去50年間で、地球と人間の関わり方が劇的に変わった。50年を単位としてみると、2050年には日本の人口が7000万人くらいで落ち着くのではないかと言われている。我々は次の50年をどう生きていくのだろうか。

 世界はこの50年平和だった。平和であったということは、各国における貧富の差がますます広がるということだ。人間が環境を残すことにYesと言うとすれば、富める者は50年間環境に尽くすだろう。しかし貧なる者の環境は致命的である。だから、50年後に希望が持てるかどうかについて、確かな答えは出てこない。将来の見方は、我々がどちらに動くかによって変わってくるだろう。

日本の環境学は

 アメリカでは、環境学部のない大学は一流ではないと見なされている。例えばYale大学では、環境心理・環境経済・環境ジャーナリズム・環境フェニミズムなど多彩な講座が開かれている。しかし日本でそういった欧米的なカリキュラムを組もうとしても、環境倫理や環境思想史、環境史を教えられる人はいない。全体から環境を論じられる専門家はいないのだ。反面、大気汚染防止などの個別の分野での専門家は多くいる。しかし環境というコンセプトからは外れ、工学なら工学の縦割でしか環境をとらえていない。研究者たちは自分の専門を変えるリスクを背負ってまでして、環境全般を扱いたくないのだ。つまり、日本には環境テクノロジストはいるが、環境サイエンティストがいない。もっと言えば、日本には環境学がない。社会的ニーズに従えば、環境学はあって然るべきである。


文責:鈴木 裕子
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