複雑系を考える
次回の講義以降、3回にわたって、M・ミッチェル・ワールドロップ著『複雑系』を読み、それについて議論していく予定である。そこで、今回は、複雑系についてに導入になるような最初の背景を述べようと思う。
最近、複雑系がはやりだしたが、今まで言われなかったのはなぜかと言うと、これまではそのような系を考える手立てがなかったためである。近代の思考形式は、還元主義(reductionism)に依っていた。還元主義とは、複雑なものを簡単な部分に分割し、その分けた部分部分を考えていけば複雑な全体も理解できるという考え方である。これは『部分の総和=全体』という前提なしでは語れない。しかし、シナジー概念に代表されるように、世の中の多くの事象が『部分の総和≠全体』なのである。
現在、ポストモダンという言葉をよく耳にする。簡潔にいえば、「近代を再検討して越えていこう」という意味である。近代の基礎になるような考え方は、ほとんどデカルトに端を発しており、ニュートン力学は、その好例である。というのも、デカルト哲学はまさに、近代の思考形式(還元主義)であり、線形のものならどんなものでも成り立たしめる。が、最近はやりの非線形・複雑系といったものは、還元主義では説明できない。そこで、人々は近代の考え方に疑問を抱くようになってきた。
デカルトやニュートンは、一般に近代の祖と考えられているが、実はかなり怪しい。ニュートンは錬金術にかなり力を注いでいたし、自分が提唱した「万有引力」についても実は、力は媒介がなければ作用しないのだから、不合理であると考えていた。にもかかわらずこの説を唱えたのは、別のしかけを考えていたからだ。
つまり、重力が存在するのは、ある法則に従って絶えず重力を作用させている作用者がいるからである。その操作をしているものは、神だというのだ。ニュートン自身は、神の存在を証明するためにニュートン力学をうち立てたのである。このような事実から、ニュートンは『近代科学の祖』というよりもむしろ『中世の最後の魔術師』と呼ぶ方が適切とも思える。
もう一つ、ニュートン力学に関して怪しい事実を挙げよう。彼の代表的著作『プリンキピア』は、その記述の形式において随分あっさりした本である。この本の中では、法則が無前提的あるいは演繹的に提出されているのである(この記述形式は、ユークリッド幾何学に遡る)。これは、実に怪しい。なぜかと言えば、Newton力学は、『F=mα』という運動方程式に凝縮され、これは、無前提的に与えられている。ところで、この、m(質量)とは、一体何であろうか?mが分からない限り、F(力)は決して分かり得ない。実際のところ、アインシュタインの相対論でのmはエネルギーにも変換される質量だが、それが何なのかは今もってよく分かっていないのである。
デカルトは、「我思う故に我あり"cogito ergo sum"」と述べたが、これには色々なテーゼがある。例えば、メーヌ・ド・ビランは、「我欲する故に我あり」などと言っている。
デカルトは、明晰に認知できることは絶対的に正しいという明晰判明の原理を打ち出したわけだが、ここで彼が持ち出すのは神様の原理である。神はこの上なく誠実であるから人をだまさない。だから、人間にとって明晰なことは正しいということだ。『方法序説』は神の存在を示そうとした本なのである。これ以後神に関する部分は消え、そのもとに作った原理だけが大切にされるようになったが、根本のところは皆考えないのである。
ジャンバチスタ・ヴィーコは、デカルトの最大の敵であった。当時デカルトは全ヨーロッパの権威であったが、ヴィーコは反論の急先鋒に立っていた。彼のデカルトに対する反論は、一部おかしいところもあるが、今は面白いテーゼになっている。彼は、そのものを作って初めてそのものの真理を包括的に理解できるとした。人間はこの世界を創っていないから、真理を全て知ることは出来ない。この世界を創ったのは神であるから、神は全てを知っている。これが彼の主張である。ここで、あるものを作って初めて真理を知ることが出来ると言うのは、真理を知ろうとしたらあるものを作れと言うことである。
現代の科学の最先端は、かつて神にしか作れないと思われていたものを作ろうとしている。例えば、生命。今はコンピューター上のモデルシミュレーションとしての人工生命だが、ウェットウェアつまり、生きた生命体としてあるものを作ろうということが行なわれようとしている。
人工生命と関わりのあることで、人工知能というのがある。人間の脳をも上回るような人工知能を作ろうという試みがある。関西にATR研究所という、ほとんどNTTが金を出している研究所がある。ここでは、人工生命に関するいろいろな研究が行なわれている。
人工生命の世界でもっとも有名なものの一つに、トーマス・レイのTierraというソフトがある。これは、人工生命を作るためのソフトで、いろいろな人がもらって自分で人工生命のプログラムを各ことができる。いま、このソフトを利用して、インターネット上に人工生命を発生させようというプロジェクトが進行している。これに関して、Tierra Homepageというものがある。ここでは、人工生命を利用して、遺伝の法則を変えたら世界はどう展開するのかとか、この世界の生命体のルールを変えたらどういう生命体の世界が展開するのかといったことが載っている。 Cris Langtonという人物は、次のように述べている。“今ある生命の形態が唯一の生命形態であるとは思えない。生命の長い進化の過程でいろいろな別の進化の可能性もあったはずだ。それを調べるには人工生命を使っていろいろな進化のパターンをやってみるしかない。”
ATRには人工生命の研究者以外に、Hugo de GARISという人物がいる。この人はBrain Builder Group というものに属して研究をしている。ここで彼は、人間の脳力を遥かに越える壮大な脳味噌を電子的に作ろうとしている。どのようにして作るかというと、セルオートマトンを使う。コンピューターの世界に、自己増殖能を持った電子的な細胞をつくって、コンピューターに勝手に細胞を増殖、進化させるのだ。
この図を見ると、一つ一つの細胞が神経繊維を伸ばしている。軸索や樹状突起を伸ばすように。これがコンピューターによって行なわれているから、信じられないくらいの個数になる。
しかも、これは電子空間上だけの話ではなくなってきている。電子空間上で作った回路をそのまま焼き込んだ素子を作ることができる。アメリカにはこのような会社がたくさんある。このような会社はFPGAと呼ばれる。
『愛は脳を活性化する』(松本元著)という本がある。この本はタイトルがちょっと怪しいが、コンピューターの世界では誰でも知っている本で、著者の松本元という人は今まで脳型コンピューターを研究してきた。今はFPGAを利用して本当にチップを作ってしまった。チップは、2.5cm四方くらいのもので、1000個のニューロンが焼付けられている。一つのニューロンが1000の入力を受け付けるから、結合が百万あることになる。商品して100個つくって公募して、いい案を作った人はどうぞ使って下さい、とやっている。Hugo de GARISのほうは、出来上がるのが数年先でも、オーダーが10億個のニューロン数のものを作ろうとしている。
理論的にはチップ同士をつなぎ合わせて拡張することが可能だから、そのうち人間よりコンピューターの方が頭が良くなるのも夢ではない、という人もある。工学的に作った脳は寿命がない。
かつては、神にできることと人にできることはかけはなれたものであった。しかし現在は、神にもできないことを人が行なっている可能性もある。ケミカルなもので言えば、スパコンの設計によって新物質を作ったり、非常に複雑な人工生命を作ったりしている。そもそも人の脳は30年かけて一人前になり、60年くらいたつと能力が落ちてしまうが、工学的に作った脳は死ぬことはない。『2001年宇宙の旅』どころではないコンピュータのできる可能性も原理的にはあるのだ。また、核融合というものは、ある意味では太陽を作るということである。全てのエネルギーは太陽から得ているのだから、宇宙空間のどこかに太陽を作って人工惑星も作れば、人がそこへ移住する可能性も出てくる。もしヴィーコの言ったように「作る=真理を知る」なら、人は神の座に挑戦しつつあるし、その領域も広がっていると言える。ヴィーコの言葉は当時とは違った生々しさを持って我々の前に立ち現れつつあるのだ。もし人が独特な生命存在を示すような生命体を作ることができたなら、神や人や存在と言った根本的概念が再検討されなければならない。その時パラダイム転換は今と比較にならないところまで進むだろう。
現代の科学技術は、かつては手の届かなかったところに進んでいる。チップの上でニューロンや遺伝子をいじることもできる。遺伝子をいじった結果どうなるかを論じることは、かつてはタブーだった。しかし今は遺伝子操作をして何が起こるかなど、自然の中にもともとあるメカニズムを利用してこれまでにない世界を作っている。
今、人間にとっての神概念とはそもそも何なのかが問われなければならないところへ我々は来ている。神概念はそれぞれの宗教が持っているものだが、では神概念とはもともとどういうものでそれを投影した社会にどんな影響を及ぼすのだろうか。神概念の一般化と言うものがそろそろ行なわれなければならない。そもそも色々な人の集団にそれぞれ神というものが見られるということは、神というものを作る遺伝子構造がどこかにあるのかも知れない。
「神とは○○である」という文章の述部を並べれば、少なくとも神というものがどういうものか見えてくるだろう。これは民族の概念を越えて一般的にどの宗教でも共通している部分がかなりある。キリスト教の例でいえば、神は全知全能ということになっている。もちろんこれが全ての神に当てはまるわけではないが、人間を超越した力を持っているという例はかなり多く、人の持つ能力の延長上のとてつもないsuperiorの域、人がこうありたいと願う能力のセットが神であるともいえる。その意味において、技術的に工学は神とパラレルであると言えよう。人間がこういう働きをする機械を作りたいという技術的な極限まで工学は進もうとしている。どこまで技術が進歩するか分からないが、非常に面白い領域の研究が今進められているのだ。
そもそも人間の推量の基本形式は、演繹(deduction)と帰納(induction)の二つに大別されるが、もう一つ、abductionというものがある。abductionは人間的推論と訳され、仮説と検証を繰り返すことを意味する。実は人間の推量はabductionによるものだ、という考えもある。
パースという、プラグマティズムの創始者のひとりと言われている人がいる。実際にscienceがやっていることはinductionだと言われてきたが、実際にやっていることはabductionなのだ。
先程のATR研究所で、独特の人工知能が現在作られている。この人工知能はabduction machineと呼ばれ、仮説を立ててそれを検討するものである。すでに“フランシス・ベ−コン”という名前のついた人工知能があり、実験のデ−タから帰納的に法則を導き出すという手法を用いているのだが、ここでも仮説を挙げてそれが正しいかどうかを検討するということが行われているのである。このように、人工知能はabductionを行っているが、このabductionは、あくまで仮説であり正しいとは限らないという欠点がある。数学の世界ですら正しいとは限らない仮説がたくさんある。その上に今の数学があるのである。この前証明されたフェルマ−の予想も、これはあくまで予想であって長年単なる仮説に過ぎなかったのだ。
人間の推量は、このようなabductionによると言われているが、実際に先程の話にあった松本元も、「人間の脳は仮説検証主義マシーンとして構成されている」と言っている。
老婆にも若妻にも見える絵を知っているだろうか。この絵がいい例なのだが、一人の人間は同時に二つの仮説を立てられない。この絵の例でいえば、同時に二つの見方ができない。それは脳の中に扁桃体というものがあって、そこで価値づけがなされているからだ。この扁桃体から、脳のあらゆる小領域に連絡線が通っていて、どういう価値づけがなされたかが連絡されているのである。扁桃体である仮説が正しいという価値づけがなされれば、その仮説に都合のいい証拠を集めるのに必要な脳内の領域を活性化させる信号が発される。したがってその間、他の仮説が正しいと考える領域は活性化されない。つまり、他の仮説が正しいことをいうための証拠探しが行われないのである。この絵の例で言えば、老婆に見えている時には、脳の中で若妻に見ようという動きがない。だから、老婆にしか見えないのである。
abductionは、このように当たればいいが、外れてしまうと大変なことになる。そのいい例がオウムである。彼らの脳は、麻原彰晃が神だという証拠を集めるのに必要な領域ばかりが活性化されてしまい、他の見方ができなくなってしまったのである。人間の推量がabductionである、というのはつまり、結構人間は危うい存在なのだ。誰しも、オウムになりかねないのであり、あるいは既存の宗教もオウムとそんなに違わないという部分が少なからずあるのである。