発表者
この本を読んでも、「複雑系」とは一体何なのかさえ、まったく見当がつかなかったことと思います。池上先生とか教養学部のカオス理論をやっている先生に聞いてみても、一人一人の答えはまちまちですし、一冊の本にこだわって読んでしまうと結局「複雑系」の正体は判らない。「複雑系」という世界自体、確固とした理論のあるものではないので、人によって言うことがばらばらです。だから、「複雑系」について本当に理解したいのならば、今日の講義に加えて別の本を読んでみることをお奨めします。そういうわけで、これから我々が発表するのは、我々が色々と調べてみたところまでで、一番本質的だと判断したところです。
まずこの『複雑系』という本について一言いわせてもらうと、イメージとして「複雑系」について知るにはいい本ですが、色々と誤解を招くような表現も多く、一行一行を分析するような対象としては不適当です。著者のM・ミッチェル・ワールドロップが「複雑系」について本当に理解しているのかどうかもよく判らないし、カウフマンといった科学者達の言葉の引用は多分正しいんでしょうけど、逆に彼らはあらかじめ前提を理解しているものとして話してますから、その前提がそもそも分からない我々には彼らの話は理解できない。僕も色々と前提は調べてみたんですけど、全部はとても調べきれません。調べていく過程で色々分かってきたことについては発表しますが…。だから、よくわからない話があったときは、そこでストップしてください。それは僕の説明が悪いからかもしれないし、「複雑系」の中に本当にわけの分からないものがあるからかもしれない。分からないところは分からないとはっきりさせたほうがいいです。それじゃ、本題に入りましょうか。
まず「複雑系」といった場合の“複雑”という言葉ですが、これは思いっ切り主観的な言葉ですよね。だからいったんこの言葉は忘れてください。
質問者
“複雑”という言葉がどうして主観的なんですか?
発表者
それは…、人によって何が複雑かというのは変わりますよね。ただ、ここで言っている“複雑さ”というのはそういう意味ではないんです。一番最初に言っておきたいんですけど、よく「複雑系」の入門書とかで“複雑を複雑なままとらえる”とか書いてありますけど、これは思いっ切り誤解した発言で、結局は科学なんで、「複雑系」の中のシンプルな原理を調べようとしているのが「複雑系」の研究なんです。ただ、「複雑系」の研究が色々な分野にまたがっているため、その“複雑さ”の基準が一定していないわけです。だから“複雑さ”が主観的になってしまうわけです。
立花
複雑な断面を考えるときに一ついい手はね、これは英語ではどう言うんだろう、と考えるというのがあるよ。“複雑だ”という英語表現がいくつかあるでしょう。
発表者
…いくつかの本でそういう説明がなされてましたけど、僕にはピンとこないんですよ。で、一応「複雑系」というものを我々の出した定義でやりたいと思いますんで…。
「複雑系」の話をする前に、線形・非線形の話をします。この前も“線形は一次式”とかいう話をしていましたけど、それではピンとこないと思いますので、ちょっと線形の本質の話をします。
「かんすう」というものを「関係する数」という考え方で習っていると思いますけど、もう一つ「函数」つまり「はこ」としてとらえる考え方がありまして…、xをブラックボックスfに入れるとf(x)が出てくるという函数を考えてください。
で、そうすると、線形の例としては、一次式がありますから、f(x)=axというのを考えます。これにx1を入れると、ax1が出てくる。同様にこれにx2を入れると、ax2が出てくる。次にx1+x2を入れると、a(x1+x2)として出てくるはずですよね。これは前二つの和と同じですね。
こういう、我々が何か考える時に、いっぺんに考えなくても別々に考えて後で足してやればいい、というものが線形の系なんですよ。これを利用しているのが、今の我々の科学なわけです。
一方、非線形の例としてはfx=x2がありまして、x1を入れると、x12が出てくる。同様x2を入れると、x22が出てくる。しかし(x1+x2)を入れると、(x12+2x1x2+x22)が出てきますよね。
そうすると、別々に考えて後から足したものと一致しないんですよね。これはx1とx2を同時に入れてやったことに対する相互作用が生まれたからなわけです。分けて入れてやったときと、いっぺんに入れてやったときに、食い違いが出てくるわけです。こういうものが一般的な非線形についての説明です。
こうしたものがどういうふうに科学に生かされてきたかと言いますと…。ニュートンの運動方程式は、運動量というものを時間微分したものが力だというもので、まずこの式を立てるときは、世界を内界と外界に分けることが必要です。このときに、中の運動量の和の時間微分というものが、外から中へ与えられる力の総和である、というのがニュートンの運動方程式の考え方です。 このときに、内界と外界を分ける枠は好きにとっていいわけです。なぜかというと、この式は線形だからです。これがこの考え方の一番のポイントで、これから近代科学が始まったとさえ言われているわけです。 まあ、ここでは、後で足してもさしつかえないのが線形だと思っていてください。数学的な線形の定義についてはここではやりません。
次に、さっきはx1とx2という二つのものをfという函数に入れた場合のことを考えましたが、こんどはあるものをfとgという二つの函数に入れた場合について考えます。 例えば気象の場合についてにしましょう。ある粒子aをブラックボックスに入れてやったときに、重力の影響でどう振る舞うかというのがf,その出力がf(a),風の影響でどう振る舞うかというのがg,その出力がg(a)とします。そしてfとgがいっぺんに働くときを(f+g)とします。この場合の“+”は別に足し算の意味ではありません。このときに(f+g)(a)=f(a)+g(a)という式が成り立つのが線形ですよね。
しかし、これは大体の系で成り立ちません。条件は二ついっぺんにあった場合には、急に色々な変化をします。
無限個の条件の入ったブラックボックスがあったとします。それに対して今までの科学がやってきたことというのは、このブラックボックスを線形なものとして分析しようという試みだったわけです。これを「理想化」と呼んでいます。だから例えば、摩擦がないものとして考えて、あとで“補正”するとかいうことをしているわけです。
ところが、このブラックボックスは線形でないものを含んでいます。無限個ある条件の間には相互作用があるわけで、一つの条件を「理想化」して取り除いてしまった瞬間に、もうそれは本質的に違う系になってしまうわけです。だから、無限個の条件を全部同時に扱わなければ、このブラックボックスが解けないわけです。
『偶然とカオス』という本によれば「物理学者は現実の断面を一つ一つ見ていこうとする。そのうえで、目の前にある現実の断面に何らかの理想化をほどこし、それらを数学的な理論を使って説明するというのが、物理学者の仕事であった」 この「理想化」というものが「複雑系」の最大の敵で、「理想化」を行ってしまうことによって失われてしまう本質というものが、かなり大きいということが分かってきた。「理想化」という作業が取り除いてしまう“ノイズ”の系に与える影響が、ある状況下ではとんでもなく大きくなってしまうということが分ってきた。こういうような系を扱う時に「複雑系」の研究が始まったわけです。
質問者
現実には、「複雑系」へのアプローチの一つとして確かにそういう面もありますけどね、いかにうまく「理想化」をするかということも「複雑系」へのアプローチの要素であることは否定できないんじゃないですか?
発表者
もちろん「理想化」をしなければ、最終的には解けないんですけどね。でもいったん全体に戻るということが必要なんです。今までの切り捨てていった状態では色々と解けない問題があるわけで、それによって「複雑系」という研究が生まれてきたと言っても、大体間違いではないと思います。
そうすると、全ての条件間の全ての相互作用を一つ一つ調べていけば、結局は要素還元主義でもこのブラックボックスは解けるのではないか、という反論がありますよね。しかし、そこまで膨大な量の計算を計算機でやるのは不可能だという現実的な問題と、初期値に対してものすごく敏感な系に対して、そこまで正確には測れないというやはり現実的な問題がありまして、結局「全体を全体のままとらえる」しかないわけです。 しかし今までの科学は、いっぺんにやると分からないからこそ「理想化」をしてきたわけで、「全体を全体のままとらえる」ことなんてそう簡単にできるのか、という話になるんですけれども…。そこで“仮説”という形でブラックボックスを表す式を条件とはまったく関係なく立ててしまって、それをコンピュータで現実と適合するかどうか調べていく、という作業が唯一の「複雑系」研究に対するアプローチだ、と2人ほどの専門家が言っています。で、大体本を読むと、これ以外には「複雑系」研究のやり方については書いてないですね。
質問者
僕が聞きたかったのは、コンピュータ自体は非常に要素還元主義的だと思うんですよ。真面目に、正確に、延々と大量の要素を還元していく、それを人間が見た時にはダイナミズムが生まれていくということが、複雑系の一番の問題だと思うんですけど。さっきの仮説ということに関していえば、一つ一つについて厳密に何かを適応していくということでは、そこにおいては結局は理想化されているわけであって、仮説も結局は理想化された姿だと思うんですよ。そこから何が生まれてくるか知らないからコンピューターが非常な力を発揮するのではないですか。何が言いたかったかというと、本当なら何が出てくるかわからなかったことが、コンピューターを使うことである程度何が出てくるかわかるようになったというのが非常に大きな進歩だと思うんです。
発表者
今までは、これを減らすという方法によってこれを導き出すという方法しかなかったのですが、今度はこれ全体を捨ててしまって作り上げて、現実と適合するかしないかという意味ではかるというようなことができるようになっている。それは今の複雑系を「全体を全体のままでとらえる」ということの唯一の方法であるという言い方がされている。細かいことはいろいろあるかも知れませんが、一応これが主流の考え方です。
立花
仮説ってのはコンピューターにのるような数式の複合階層ですか。
発表者
そうです。
立花
そうすると例えばね、流体力学で割と複雑なナビエストークスの定理というのがありますね。あれは、基本はニュートンの力学を変形していく、摩擦や水の場合には粘りとかのいろいろな要素に分けてそれぞれをニュートンの方程式の変形で全部足し合わせ、重ね合わせたみたいなものですね。そのナビエストークスも、普通は解けないけれども、実際それで解いたといえるかどうかわからないけど、シミュレーションをして解いてやるわけですね。そういうことをいっているのですか。
発表者
それはちょっと違うんじゃないかと思うんですけど。
立花
その仮説ということで何を意味しているのですか。
発表者
仮説というのはここに見てとることはできない。けれどインプットとアウトプットを見てやることによって個々のものは考えずに、全体としての式などをコンピューターにのせてやって走らせるというわけ。例えば今のナビエストークスの話でも、実際こういうモデルが出されていて、逆に個々の要素から導いてやって、それでも全部覆いきれないと思うんですけど、もし近似が適切なものであれば、コンピューターにのせてやれば、うまくいきますよね。そういう広い意味でいっているのじゃないかと思います。結局仮説の作り方はいろいろあると思うんです。今までのように個々の要素から作り上げるとか、でも最終的には要素から離れたものは消えてしまう、という考え方で進んでいるという話を伺ってきました。で、これは割合説得力のある考え方だと思います。
全体を全体のままとらえるというのが何をいっているのか良くわからないですけどねえ、はっきりいって。あと要素を集めて、部分を集めても全体にならないという見方もありますけど、原理的には部分同士の集め方が部分同士の相互作用まで考えたものであったのなら、部分を集めれば全体になるわけですよ。でも、原理的ではなく、プラクティカルにできないというのが問題なのです。できない理由として、初期値不安定のカオスによるものとか、観測による我々の干渉とか、計算機がそこまで追いついているかとかいうことがあります。
質問者
本当に、原理的に部分の和は全体に等しいということが言えるのですか。
発表者
言えないということも、今複雑系の中で言われています。ただし、言えないと言っている人もなぜ言えないか、その根拠が言えない。量子力学にシュレーディンガー方程式ってのがありますね。そのシュレーディンガー方程式を、計算機が非常な進歩をして全体が表せるかどうかという議論がありますが、それは僕もわからないんで物理の先生に聞いてみたところ、原理的に不可能ではないという答が二人の先生から返ってきた。カオスの二人からです。よく分からないと言っている先生もいました。だからいろいろな意見がある。全体をやっていながら仮説も今の通り含まれているわけですよ。
質問者
仮説ということが問題なのですが、つまり、百科辞典が仮説になるのか、なんでも仮説になり得るのか。入力とか出力とかによって全部仮説というものが変わっていくとしたら何でも仮説になり得るのではないですか。複雑系で、何が入力として何が出力として扱われるか、いろいろ違うじゃないですか。入力も出力も違えば仮説まで変えてしまうということであれば、百科辞典じゃないけど、こういうふうな特徴を持つものはこう呼ぶとかいうふうになってしまう。
発表者
今、百科辞典といえるほどその種類がないらしくて、多分その種類の中から今度は普遍性を見い出そうとしているんだけども、要するにさっき言った通り複雑なものを複雑なまま理解するなんてことはできないですから、結局普遍的なものを複雑なものから見い出そうとする行為が行なわれているのです。今作るということによって作った後何があるのかまだわからないというのが現状らしいです。
質問者
今そこにf、g、h、iと書いてある話なのですが、それを理想化することによって、ある要素を除いてやることによって、ここの要素の中から一つの体系が作られますよね。方程式なり何なりと。で、それがかつての科学であって現在それを例えばコンピューターの発達なんかによって、全体を全体としてとらえることができたとして、その上に一つの仮説ができたとしたら、理想化されて個々の理論を組み合わせて作った理論とは異なったものになりますよね。それで、出来上がった仮説と、理想化による結論とが食い違った場合に、違いは理想化による違いなのか、それとも個々のものを足し合わせることができないことからくる違いなのかどちらを扱おうとしているのですか。
発表者
それは物によって違うでしょう。多分。実際これでなりたっている系もあるんと思うんですよ。そういう系で、逆に無視してしまったものがでかくなったという場合もあるでしょうし、実際足すだけでは駄目な場合もあるでしょう。両方の理由で、複雑系というのは、純粋な理論というよりは、ある意味エンジニアの側面があって、現実を説明したいという目的があるのです。
質問者
極端な言い方をして各論は必要なくなるんですか。
発表者
さっき立花先生の話にありました通り、結局各論は仮説を立てる時、最終的に使うと思うんですよ。だから各論がなくなることはないと思います。
質問者
そこで言っている仮説と言うものが総論的なものだと思うんですが、総論と言うのもいろいろな種類があると言うことですか。
発表者
モデルと言うのは一種類とは限らないというのがありまして、何通りにも書けてしまうんです。
「複雑系の科学」と従来の科学 |
発表者
結局複雑系と言った時、今までの科学とどう違うかというのが一番疑問だったのです、勉強していて。わざわざ複雑系なんて呼ぶ理由あんのかよ、という。
質問者
それは僕らの世代だからじゃないですか。生物学とかにずっと触れているから、ある程度複雑系の科学というのを理解する下地があったんじゃないですかね。
発表者
それはいろいろあるでしょう。日本人は理解しやすいんじゃないかとか。もともと向こうの人達は信念があるらしいですね。世界観がある。世界観があって、それに現実を適合させていこうとする。しかし我々は、世界観なんてのは持っていない。そういう民族が日本人なんで、生まれ育った環境と日本語という言語を使っているということに支配されるというのが文化人類学で言われていることですけど。
立花
前にデカルトの説明のところで、現象の説明というのがあったでしょう。人間、これは正しいとクリアーにわかるものは真理だということに関して、彼が結局説明を求めたのは神様はそんな意地悪をするはずがないという、結局それしかないんですね、説明は。デカルトとニュートンがいて近代ができた。その根底にはそれがあったんだよね。もう一つ近代のサイエンスの一番最理想化の極限は、ニュートン力学は全部質点として考えたんですね。質点というのは幾何学上の点で形がない。大きさがない。ようするに一点にあらゆる力が集中すると考えて、ニュートンの方程式を立てて解いて考えるでしょう。しかし現実にはどんなものでも点にするとめちゃくちゃな理想化ですよね。本当ならすべて形があり大きさがありそういうものでしょう。じゃあそういう理想化で本当にいいのかということになる。複雑さの問題というのは、無数にあるエレメントの数とか形とかということです。それからもう一つは彼がいったf、g、hとか、ものすごく多い要素のなかからあるものを切り捨ててやるという理想化がある。こちらの方は極限までいくと、例えば、一つの立方体の中の分子を数えあげて一つ一つを全部精密に観測して理論を立てて、これをすさまじいコンピューターで力まかせに計算すれば、本当に解析できるかも知れない。しかしこれはプラクティカルには観測そのものが不可能だし、本当にエレメントすべてをとろうとすればめちゃくちゃ大き過ぎて、また分子の形まで考えると非常に複雑な形をしていて力が実際にはどう働いているかということまで関係してきて、しかも分子レベルの振舞いを考えれば、相互作用などもっと増えてしまう。そういうエレメントの数と作用の面と両方から複雑性というのが出てくると思いますね。
発表者
エレメントまでも抽象的条件ということになりますね。まとめますと、結局条件が無数個ある。それを一個一個調べてやって後で全部足してやることが成り立つのなら、今までの科学でもできたのです。そうではなくて、この条件が線形性を満たさない場合においてかなり問題が出てくる。結局全体を全体のままとらえるないとどうしてもこの系を理解できなくなってしまう。特に経済学なんかの条件は恐ろしいものがありますね。人間の意志まで絡んできますから。人間と人間の意志というのは相互に完全に干渉します。一人と一人とが考えたことが助け合ってうまくいくわけですから。そんなわけ一つでも、例えば十人の集団の中から一人でも抜けたらうまいアイデアがみつからない場合だっていくらでもありますし、それだけ相互作用が大きいということを考えると、全体を全体としてとらえるということをやってやるしかない。しかし全体を全体としてとらえるためには今まで道具がなかった。それでコンピューターという強力な武器を手に入れたわけだ。そうすると複雑系はエンジニアだという話をしましたけども、もっと本当にエンジニアの人に言わせると結局複雑系なんかは訳に立たないというのが、一応批判としていわれていることです。それが理解されたからと言って、我々はそれを利用して何ができるのかと言うと、はっきりとは言い切れない。初期値によっていろいろ変わってしまうとか、確率によってしか決まらないとか、いろいろありまして、結局利用できないんじゃあないかなという説もあります。でも複雑系の意味というのは考え方の変換ですよね。今まで当たり前だとされていたものを、もとに戻ってやって、もっと素直に全体を見つめて、今まで無視してきたものをもっと意識して見てやる。それでも無視できるのか、できないのか、できないのだったらどういう手法を考えなければいけないのかと考えてやる。そういうことをするためにノーベル賞学者がサンタフェに集まってできたのが複雑系の研究だということです。
立花
そもそも何らかのプラクティカルな利用を見つけたいというモチべーションでやっている人はそんなに多くはないでしょう。世界の見方の問題だよね。この世界をどう見るかという。
発表者
ただし、池上さん(カオスの研究者)なんかもいろいろ非難されているらしい。ただ遊んでいるだけじゃないか、と。
立花
学問ってのはある意味では全部遊びなんだよね。
発表者
ある意味ではそうなんですけど、役に立たないということで非難されるらしいんですよ。それが一度定着してしまえば役に立とうがたたまいが誰も非難しないけれど、どうしても新しく生まれてきたものは批判されがちらしいです。複雑系を勉強しているセミナーの人たちの間にも複雑系なんかは全然やっても役に立たないんじゃあないかという雰囲気がある。
立花
そんなに役に立たないです。本当に。一つだけ補っておいた方がいいと思うのは、割と経済の話がたくさんでてくるでしょう。近代の経済学はいろんな理想化を含んだ理論なわけですよね。この本の中でも今の経済学がどんなに現実とかけはなれているか、解説してあるけど、みんな教養学部段階だと経済が好きな人でも本格的な経済の論文なんて読んだことなないでしょう。数式をものすごく使ったような。これは、数理科学という複雑系の雑誌の特集で、経済に関する論文が一つだけありまして、これは面白いんです。面白いというのは、今の経済学がどのくらいバカげたことをやっているかが良くわかるんです。ここで例にあげられているにはウザワコウブンという有名な東大の経済の先生がいますね。この先生ですね。この人のエッジワース過程に関するものですね。取り引きを通じて経済的な近郊状態にどのようにしてなっていくかということを、数式を利用してやるんですね。
このいろんな人がいろんな取り引きをして、その過程で、この本の中でも盛んに出てくるように、いかにある経済的な均衡状態というものになっていくかということを、数式を利用してやるんですね。しかし数式を作る過程でですね、いろんな仮定をするんです。これがさっきのね、理想化、要するに経済の理論における理想化というのがどのように行なわれるかというと、例えば、「各主体の取り引きでずるや投機をしないと仮定する」とかですね(笑)、とにかくほんとにね、高校の物理で摩擦がないと仮定するような、そういう条件ばかりベタベタ並べるわけですね。それで、「人が物資を何らの強制なしに他人と交換するとしたら、それはその交換によって自分の状態が改善されると考えるからだ、とみなして良いだろう」。そして今度は、効用関数というものを考え出す。ある人にとってあるものが効用を持つ、という時に、その背後には関数があるはずだ、そういう風に考えて、それを数式にとり入れてやっていく。そして「各主体の効用を恣意でウエイトづけして合計したものが全体的な効用関数である」と定義するわけですね。それから、「取り引きは各人の効用を減少させる方向には決して発生しないので、この式は上昇し続ける。そういうようにして理論っていうのをどんどんやっていくわけだけど、例えば前提でね、「各人が自分の必要としない財を所持している状態がそのような初期状態に該当する」とか、そういう仮定ばっかりしていく。それでこの人の批判ですけれども、「さて、上記の議論は経済主体を固定した取り引きルールを採用して決まり切った行動を繰り返す機械のようなものとして取り扱った。しかるに人間あるいは生命一般の大きな特徴は、その行動が環境に適応すべく変化することである」。で、そういうものは全く考えにとり入れられないわけですね。「結局、経済学者は均衡概念を思考の中心においているが、そのような枠組で取り扱うことができるのは既に死んでしまった経済である」。これは、この『複雑系』の本の中でも似たような表現がありますけれども、結局これを読んでいると、これほどばかげたことを近代経済学はやってきたのかと(笑)、おかしくなるような論文ですね。いや、この中に経済に進学しようとしている人もいるかも知れないけれども(笑)。これは経済学に限らないのだけれども、学問の相当部分というのは、その根拠とかやっていることとか問いただしていくとすごいなかげているというか、「それがどうした」、「So what?」の一言で否定されるようなものが多いんですね(笑)。
発表者
今のでイメージがわいたと思います。さっきの仮定というのが、すごくばかげた仮定ですけれども、こうやって和で分割できるのだったら、後でいくらでも補正することが可能なわけですよ。しかし、大体の系というのはこんなことは成り立たないですから、やることに本質的な意味がないということで今の「So what?」の、ばかげているということが成り立つんで、だからこそ複雑系、ということになっていくわけです。これで今までの学問との違いがある程度明らかになったんじゃないか、ということを願っているわけですが。エマージェンス、創発、というのは、結構大きな問題なんですよ。インターネット上のコンプレキシティー(複雑系)の用語辞典で調べるとか、色々な方に聞いてみると、まず「創発」という言葉自体、ものすごいむちゃくちゃな、曖昧な使われ方をしているということが明らかになってくるんです。例えば、ある先生は、「相転移は創発だ」、この本(『複雑系』)でもそう書いてありますよね。そんな馬鹿なことを言ってるんじゃない、と怒る人も多いわけですよ(笑)。
立花
もともと、その創発という概念がどこから出てきたかを言っておいた方がいいんじゃないの。進化論から出てきたんじゃなかった?
発表者
そう、そうです。そのへん先生、説明していただけますか。
立花
いや、ものごとが進化する過程で、常識的な進化論では小さな変異がどんどん積み重なってAという種が徐々にBになるというような、こういう考え方をするわけですよね。ところが進化史というものを具体的に化石なんかを使って調べていくと、ここからここへとんだとしか考えられない、そういう進化というのが実は結構おきているわけで、生物史の時代を画するような変化というのは、突然のジャンプというかリープというか、そういうものによって起きているわけですね。で、こういうことが突然飛び出してくることを、エマージェンス(emergence,創発)と言っているんですね。
発表者
そうするとですね。相転移って何、という話になるわけですけれども。相転移っていうのは、ある時突然、連続な関数で動いていたものがぶわっ!と不連続になったりとか、関数自体は連続でも微分が連続じゃないとか、そういうのが起きた時、相転移と呼んでいるわけですよ。そうするとある意味、概念としては創発と全く変わらないじゃないか、という話もあるんで。創発というのは、相転移としてとらえる方法と、もうひとつありまして、結局創発は我々主体の側の問題であるという考え方があるわけです。例えば、無数の粒がですね、何らかの規則によって運動して、ある瞬間に時間を止めて写真を撮ったとします。そのときに、それが模様になっているかいないかっていうのを判断するのは人間なんですよね。その粒は、自分が全体の中でどこにいるかは知らないわけですよ。だから創発というのはある意味我々見る側の、主体の問題であるという考え方もあるわけで、だからこそ、全体を全体として見ないと、いくら細かい部分を見てやっても、木を見て森を見ず状態で、全体像が眺められない。だからレベルをどんどん分けて研究しなくてはいけないと。例えば、経済学で言うなら、人間同士での経済学、会社組織同士での経済学、みたいに、そうやって、会社というのはいくら人が集まってできるとしても、そのレベルに応じて理論を立てなければ、ある意味良くわからないという。この辺り、もっと厳密にやりたいという人にお勧めできるのは、プリゴジンの本です。『複雑性の探求』という本がありまして、これはなんだか丸め込まれているのかも知れないけれど説得力がありました。
立花
僕は以前プリゴジンと一緒にシンポジウムやったことがありまして、この人は本物のすごい人です。全然レベルが違うっていう。
発表者
複雑系というのは、科学がこれまでの流れの延長線上では先が見えていると思った人たちが、一歩昔に戻って道をそれているとも言えるわけです。
立花
だからもちろん、複雑系という学問をやること自体ナンセンスという人もいるわけです。今だって科学のメインストリームは要素還元主義でいくわけですからね。そこを否定しちゃったらどうしようもないってことがあって、むしろそういう複雑系の流れを否定する人の方が多いことは多いんじゃないかな。ただね、非常に面白いことは、純粋サイエンスの人の方がこういう話は得意だと思うでしょう、案外工学の人が複雑系にものすごく関心を持つ。それは何故かというと、要するに、いわゆるピュアサイエンスね、かれらはものすごく理想化された世界に住んでいるわけだけれども、工学というのは常にものを扱っているんですね。大きなものを扱っているとぶつからないんだけれど、今、工学のほとんどの部門っていうのはミクロもミクロ、ナノテクノロジーというものになりつつあるわけです。そうすると、普通のものを見る目で自然を見ていては何もわからないという世界にぶつかっちゃっているわけですね。で、そこで、複雑系としての自然そのものにぶつかっちゃってる、それに工学的に対応しなくちゃならない。僕は昔ピュアサイエンスが好きだったもんだから、工学はかなりばかにしていたんだけれども、先端研にいくと、そういう工学の最先端にぶつかって、そういうふうな方向から研究している人がたくさんいるんですね。そうすると、これはむしろピュアサイエンスの人よりもはるかに本当の自然にぶち当たって悩んでいる人というのはたくさんいるんです。今日たまたま話を聞いていたら、先端研の前の長は村上さんなんですね、あの科学者の。彼の時代に一度複雑系のプロジェクトを立ちあげようという、それで予算までついていたというね。そういうことをそんな前にやった部門というのはないんですね。まあ、今この教養学部には複雑系関係の先生がたくさんいるんですけど、その人たちが複雑系に手をつけたのとおなじくらい、あるいは少し早いくらいの時期に、そういうことを工学の面からやろうとしていた人たちがいる、ということで、いまはもう学問のイメージというものは以前と全然違ったものになりつつありますね。
もうひとついい?あの、さっきからの彼の複雑系の話の中で、かなりの部分というのが主観の問題にぶつかってくるということがあると言いましたけれどね、この本の中で僕がすごい面白かったのはですね、今ちょっと具体的な場所は見つけにくいんですが、人間ていうのは、自分の外の世界を見る時にあるコンテクストの中で見ているというんですね。たとえば、今こうやって僕が何か喋って、そっちがそれを聞いて理解するという過程がどんどん進行しているわけですね。そのときこの、ある人が、あることを聞いて、それを理解するという全過程の中で、実はその人の頭の中で、相手がいっていることを先取りして、コンテクストにしたがって言葉を待っているから理解できる。ええと、君らの中で英語のヒアリングちゃんとできる人いますか。帰国子女じゃなくてちゃんとできるようになった人、いない?(笑)いない。これは絶対必要な能力だから、是非身につけて欲しいんだけど。これはですね、最初は聞いててもほんとにちんぷんかんぷんでしょう。ちんぷんかんぷんでもないけれど、ところどころわかった単語があるという程度で、流れてくる英語が流れのままに耳に入ってくる、今日本語がそうでしょう、僕が喋っていること、頭の中で一生懸命考えなくてもわかるわけでしょう、それとおなじ状態に、ヒアリングの訓練をやってるとどこかでなるんです。突然ものすごいクリアにわかるんです。それがこの、コンテクストにしたがって先取りして待っているというね。それが一つの言語系、つまり英語の中でその人の頭の中にできちゃうんですね、そういう仕掛けがね。実は言葉だけじゃなくて、人間がこの世界を見る時に、実はその人はあらかじめ世界をとらえる知的な枠組のようなものを、ちゃんともっているわけですね。だから複雑系についても、人間一般が持っている基本的な世界のとらえ方の枠組がどうなっているかという問題と切り離してはとらえられないわけです。複雑系というものをどう定義するかという、そのこと自体問題なんですよね。これも、いろんな人がそれぞれの立場から複雑系の定義ってのをやっているんです。それはもう、それぞれでみんな違うんです。だから、とりあえずは日常言語の感覚で複雑系って聞いた時になんとなく頭に浮かぶイメージがあるでしょう、まずそれでとらえておいていいと思う。
じゃあ、複雑系を科学しようとしている人たちがいて、それもいろんな手法があって、例えば一つはもっぱらカオスという側面から考えていくわけだけど、そのカオスにも実はいろんなカオスがあるわけですよね。その、一つ有名なものが決定論的なカオスって奴で、要するに、カオスとは混沌ですね、それが、外から見ている限りただの混沌状態と思っていたものに、実はある取り出し方をすると内部の構造がきちんと見えてくる。だからこれは一見カオスだけれども、実はカオスでないというか、それこそカオスの定義によるんだけれども、そういうものが出てきたわけですね。それが決定論的なカオスというもので、割に有名は有名ですね。しかしそればかりがカオスでもないし、カオスだけが複雑系でもない。じゃあ、どうして複雑系がこんなに注目を集めだしたかといえば、一つは、これまでのサイエンスのあり方に対する根源的な批判からなんですね。そもそもサイエンスとは一体何なんだ、その成立根拠はどこにあるんだ、というね。その、サイエンスの成立の根源そのものを疑う視点を与えるもの、だと思いますね。だから複雑系の科学以後の、科学というものをとらえる目というか、それはもう根本的に変わってる。で、それが変われば自ずから科学に社会が担わせる役目というものも違うし、その評価というのも違ってくるし。いろんな意味で複雑系の科学ってのを勉強するとものの見方が変わってくるんですね。だから、始めのころ言った、これは結局世界の見方の問題だという、そこなんじゃないの。
なぜ複雑系は生まれたのか |
質問者
多分、僕が思うにどうして複雑系が生じたかっていうのは、科学っていうのは元々現実にある世界っていうのがあって、それをそのまま一気に見渡すことは出来ない。それで、いくつか断面をつけて、断面で持って見て行こうと。それが科学だと思うんですよ。で、その断面を切るときに、ある原則をつけて断面を切ってやる。それが、さっきから言ってる「理想化」であって、そういう風にしていくつか断面を設けてやって、それでいろんな学問が出来てきたと思うんですよ。で、そうやって断面をつけることによって、いったい科学は何をしようとしてるのかというと、僕が思うに一つは、科学の目的っていうのは予測だと思うんですよ。実際起こったことの説明が一つの目的であって、もう一つはこれから起こるであろうことの予測だと思うんですよ。で、ある種の理想化の状態をつけてやれば大体現実を予想できるっていうのが今までの科学だったと思うんです。ところがそれは、条件をつけてやって一つの断面で切ってやって、そのもとで大体現実がそれに適合するんだっていう条件の下で予測をしたんであるから、時にはその予測に外れる現実が起こるのは当たり前のことだと僕は思うんですよ。だけれども、予測が外れるってのは、一種科学にとっての敗北だと思うんです。それで、じゃあ一体どうして予測が外れたのか。そもそも科学を最初に作った根底になっている理想化の条件とは何だったのか。どういう切り口で持って最初に切ろうと思ったのか。そういうことを一番最初の段階に戻って考えようとするのが「複雑系」を考えようとした意義じゃないかと僕は思うんですが。
発表者
…うん、その通りです。そういうことを伝えたいと思っていたんですが。すごく嬉しいっていうか(笑)。
立花
あの、この中に純粋文系の人はどのくらいいますか? 純粋と不純っていうのをどういう風に分けるかは問題ですが(笑)。例えば文三(文学部進学)でも、割とサイエンス系の文三ってありますよね、心理学とか。そうじゃなくって、例えば何とか文学、これはもうサイエンス関係ないですよね、そういう人ってどのくらいいますか。そういう人たちがやってるのは全部「複雑系」なんです。複雑系そのものなんですよ。だから、全然難しいことはないわけで、そんなのは大昔からやってきた、要するに人間が関わることはもう全部複雑系です。で、なぜそれが複雑系かというと、そこに複雑系の本質というものが一つあるわけだけれども、要するに人間の関わることがなぜ複雑かという、まあ、人間の集団を考えると、この一人一人はこの人間集団を構成する一つ一つのエレメントですが、これの振る舞いっていうのは予測不可能です。この人が次の瞬間何をやるかってことは、予測不可能でしょ。で、ある大きな系を構成するエレメントというか、そういうものが独立の行動の可能性を持って、その一つ一つについて予測不可能なものの、この全体がどうなるかってことは、ほとんど分かんないですよね。まあ、ただある程度は予測がつくみたいなことはありますよ。それは集団で人間が動くときの社会心理がどうのっていう、これはある程度の議論が成り立って、実際に調査があって、いくつかの法則みたいのも、相当インチキなものも多いんですけどあって、そういう予測がある程度プラクティカルに使われるってこともあるけれども、大体いわゆるピュアサイエンスも、あるいはその心理学みたいな文科系のサイエンスも全部俺は嫌いだって人が、多分文学やってる人なら結構いると思うんですよね。ああいうのはみんな学問としてインチキだと(笑)、心の底では思ってるみたいな人がいて、本当のあれはむしろ文学の方がよく分かるんだとか、多分そういう風に思う人がいると思うんですね。それはある意味で正しいと思いますね。それがある意味で正しいという見方を与えるのが、実は複雑系の科学だと。っていう風な言い方も出来るんです。
質問者
さっき複雑系の意味みたいなのは言ってましたけど、方法みたいなのってやったんでしたっけ? アプローチの仕方みたいなのは。
発表者
だから、基本的手法は作るしかないっていう言い方しかしてない。コンピュータで作るしかない。
立花
一般的な理論っていうのはない。それはそうなんだよ。
質問者
カオスならカオスに限定したのはありますし、これは一つのインターネットのページなんですけど、複雑系の中でトピックスはこれだけ分かれてるわけです。人工生命の話もあって最後は自己組織化、まあこれ重複してる部分はいっぱいあると思うんですけど、しかしまあ複雑系っていうのはインターネット上ではこれぐらいに分類されていると。で、これの一つ一つに限定して考えれば、例えばフラクタルとか考えればある程度理論はあるんですけど、今、最終的に「複雑系」が目指しているものについては理論はないと。最も複雑系の研究の中である程度議論が固まってるのがカオス研究であって、だからこそカオスを利用して他の複雑系を理解できないかという試みがなされているのが現状です。
立花
それはね、どういう系の複雑系をどういう角度からやるのかっていう、その対象とアプローチの仕方によって、全部話が違ってきます。それで、確かに今言ったような、割と数理科学の人はカオスから行くんだけど…。例えば物性物理で、サンタフェを作った人で二人ノーベル賞受賞者がいて、一人はゲルマンでもう一人がアンダーソンですね。このゲルマンっていうのはクォークの理論作った人ですね。それからアンダーソンっていう人は、普通の人では、まあよっぽど物理をやってる人じゃないとわからないと思うんですけれども、この人は物性物理の人です。この「凝縮系物理学」っていうのは何かっていうと、いわゆる日本では物性物理っていうのは、一つは「固体物理」、solid stateっていう、物質の状態として固体の形状をなしているものを分析していく、物質をどんどん根源的なものを求めて素粒子へ下がっていくというのも一つのやり方だけれども、例えばいろんな物質の表面が今どうなってるかとか、表面を構成してる物の間の関係はどうとか、そういうことをやるのが物性物理なんですね。それでこの人はですね、物性物理では割と有名な人で、物性物理っていうのは、今物理に進む人でも大学に実際に入って物理のいろんな側面を学ぶまでは、物理の範疇の中に物性物理ってあんまり入ってないんですね。だけど今本当に面白い所っていうのは物性物理にものすごくあるんです。そういう物性を研究してくと、どうしてもその物の性質ですよね、簡単に言えばね、しかも素粒子とかそういう世界じゃなくて、この世にある物自体、それをとらえようとするとこれは本当に複雑系そのものなんですよね、ある意味ではね。
そのとらえ方は色々あるんだけども、この人がやった仕事で一番有名なのは、これはまた難しい理論がいっぱいありまして、一つに「アンダーソン局在」っていうのがありますね。この人本当に色々なことやってるからなかなか言えないんだけど、ほとんど説明を聞いても物理を相当やった人じゃないとわからないような領域なんですね。まあぱっと見てみると、「発端は半導体における不純物が濃度を上げていったとき、やがて不純物局在電子間に相関が出来て、不純物電子が不純物帯を作り不純物伝導を始める。これはどのような条件で生ずるかという問題である」。これがアンダーソン局在の問題です。今聞いてほとんど分かる人はいなかったと思うけれども、でも今は本当に物性物理を利用して、半導体産業っていうのは物性物理の成果の上に作られてるんですね。こういう証明の問題っていうのが全部生の学問の中に出てきて、その中でアンダーソン局在以外に複雑系をどういう視点でとらえるかという、いろんな基本概念っていうのがたくさん提出されていて、それは相当部分が複雑系の科学でもそのまま利用されてるものですね。結局サイエンスというものが物質の系をとらえようとするときには、どうしてもモデルっていうものが必要となってくるんですね。モデルを通してサイエンスっていうのは全て自然をとらえようとするわけで、そのモデルを、どういう局面の自然をどういう角度からどういうエレメントについてとらえるか、さっき言ったような、どういう作用の側面をとらえるか、それによってモデルの作り方ってみんな違うわけで、そのモデルはまたみんな数学的な形をしていて、その時どういう数学を使うかで違うモデルっていうのが出来てくるわけですけれども、「複雑系」のサイエンスの中で利用されるいろんなモデルっていうのは、実は結構物性物理の世界から出てきたものなんですね。そういうモデルを元にみんなコンピュータを使ってシミュレーションをやって、いろんな複雑なものを見ていく。さっき「複雑なものを複雑なままとらえる」って言いましたけど、本当に複雑なものを複雑なままとらえようとしたら、そもそもサイエンスのメスなんか入れないで、ありのままの自然をそのまま受け取るというのが、全然別の生き方として複雑をそのままとらえるということになるわけですね。実際割と人文系の人にはすぱっとそういう角度からいっちゃう人もいるわけで、そうじゃなくて今度は本当にサイエンスの方角から自然をなるべくそのままにとらえようとすると、結局は何らかのモデルを作って、モデルを構成してるいろんなエレメントをいろんなパラメータと式を使って分析してやってくという、そういう手法が一般に使われていて。
シミュレーションの話、前にしたよね。シミュレーションの所でもう一つ起きてくる問題は、本当の物理的な系をあれしようと思ったら、どういう系でもそれを構成してるエレメントを生の数だけとらえて計算しようと思ったら、それはもう絶対出来ないという系がほとんどなんですね。ここにある、この1ccの空気の中にあるガス分子だけとってもそうですよね。そうすると結局は、いろんな意味でモデルを作んなきゃいけないわけだけど、そのモデルを作るときにね、一つ大きなことは、ある大きな系の中でエレメントをどういう風に拾い上げてどういう風にやっていくかという、そのエレメントの取り方なんですよね。基本的には三つのやり方があって、これ実際にやるときにはめちゃくちゃとるんですよ、でも基本はとにかく一定の目盛りで格子状に切っちゃってそれを自然にかぶせてやるっていうのと、それから自然の対象を小さなメッシュをかけてってやってくという、それぞれ境界要素法とか、有限要素法とか、差分考証とか、まあいろんな名前がついてるわけです。これは線で切ってくという、この方式で何らかのモデルを格子点で捉えて、まあ何でもいいんですけどそういうもので捉えて、あるラフな物を作るんですね。その次これを極限操作をやって、ものすごく細かくしてくんです。そうすると本当に生の自然そのものみたいなシミュレーションっていうのが出来て。ブラックホールに沈降するガスの流れのシミュレーションとか、ジェットの噴出するガスのシミュレーションとか、宇宙で起きてる銀河の衝突のシミュレーションとかですね、こういう手法によって例のC60の分子の電子密度とかですね、今こういうもの、つまりトラディショナルな工学の手法ではとらえきれないものを、こういうコンピュータシミュレーションの方法でとらえて見てくということによって、例えば誰でも知ってるものでは、割と最近三菱自動車が売り出したGDIエンジンっていうのがあるでしょ。あれはあの、自動車のエンジンのシリンダーにガソリンが直接噴射する直噴式というやつですね。これは、この中で直噴したときにガスの振る舞いがどうなるかっていうことをシミュレーションで、もちろん窓あけて観察したりとかいろんなこともするんですけど、基本はシミュレーション繰り返すんですね。それでこのピストンの形状をこうしたらここんとこがこうなる、そういうことをやって、シミュレーションっていうのは本当に日常的に使われる技術になってるんですけれども、さっきも言ったように格子点をどんどん細かくしてくことでより精度を上げようとしてるんですね。そうすると本当にリアリティと見枉ごうばかりの精密なシミュレーションが出来て、でも実際にはかなりずれるんですね。シミュレーションをやる一方で、何らかの現実の実験からのデータを照合してモデルを直してまたやったりとか、そういうことを繰り返してるんです。これをどんどん極限までやったら、本当のリアリティそのものがとらえられるかって言ったら、必ずしもそうとは言い切れないんですね。これはさっきの微分の問題についても言えるわけで、微分っていうのは基本的には極限という概念の上に乗ってるんですね。本当に極限という操作が現実を反映してるかっていうのは結構疑問なところがあるわけですね。そこは昔から大きな問題になってるわけで、ただ人間の現実的な道具としては、それを使ってやる微分という操作でしか今自然のいろんな側面をとらえられないということがあるわけで。実はサイエンスのいろんな面っていうのは、本当に厳密にとらえようとするとものすごいあやふやな所があって、現実にいろんな現象として突然あやふやなものの部分の箍めっていうのがふっ切れてきたりすることがあるわけですね。実は複雑系の問題にいろんな角度から関心が持たれだしたというのは、そういうことが現象として結構起きてたということがあるわけですね。
質問者
僕の考えだと、今までは世界を要素に分解してましたよね。複雑系っていう新しい、新しいかどうかわからないけど、複雑系って言われる科学っていうのは、作って補正して作って補正してってそういうことで成り立っているという認識で、どうですか?
発表者
補正っていうよりは、モデルを変えてくっていう。
質問者
その中から関係を見出す、分析じゃなくて統合、簡単に言っちゃえば、簡単で悪いんですけど、僕なんかそういう認識なんですけど、どうですか。
立花
さっきの一つの話題の中で、カオスの中に決定論的なカオスがあるとか何とかいう話がありましたね。特に決定論的なカオスで、そのある決定論的なカオスを生み出すもとになるいくつかの条件、これがあると決定論的なカオスが起きるという条件、ここは割と分かるわけですね。これは分かるけれどもこの結果が分からない。つまりこの間に予測不可能な展開というものが原理的に起きちゃう。それが決定論的なカオスの問題なんです。そうすると、いくら補正して補正しても、どうにもとらえ切れない現実展開のギャップというね、そういうものがどうしてもあるという、そういう現象系もあるんですね。これはまた考え方によってね、この展開も精密にやってけば分かるというんだという見方もあるし、どうしても現実的にわからない部分はあるんだという、そういう見方もあるし、そうするとあるモデルを作って補正してっていう繰り返しをやれば解決できる問題じゃなくて、どうしてもここは訳が分からないで予測不可能な現象が起きちゃうという領域があるんだということもあるんじゃないですか。
よくほら、「バタフライ現象」っていうのがありますよね。「北京のバタフライがニューヨークに竜巻を起こす」っていうね。あれは、精密にやれば起きる過程も分かるっていう見方もあるけど、でも現実にやってみたら、プラクティカルな問題抜きにしても分からない。だからプラクティカルな問題よりもコンピュテーションの問題もあるし、それからそれを記述する式そのものがないということもあるけれども、いわゆるカオス的な現象は、その中にどうしても解析しきれない動きがあるということもあるんですよ。
発表者
そうすると結果だけが分からないんですよね。そうしたら、その間は分からなくても、結果がある意味現実を反映していれば問題はないという、最初のスタンスはそれなんですよね。
立花
まあむしろ、つまりある意味ではね、無駄な努力をやってると。やっぱりサイエンスが世界の中に、プラクティカルな意味でも、投下する時間と労力と、そういうもの全て計算に入れてとらえる結果と、パフォーマンスが悪すぎるという。それがもうはっきりしたということがあるよね、カオスの一つの問題として。だから、複雑系の科学というのは、ある意味では、人間の原理的かプラクティカルか、あるいは両方なのか、それは分からないけれども、ある「知の限界」を定めるものっていうか、つまりその知の限界についての知識を与えるものっていうか、そういう風に考えてもいいんじゃないかな。
発表者
まあ、でも無理だと思っていても挑戦する努力は。それがある意味、今まで無理だって考えられていたものを複雑系の科学っていうのが挑戦しやすくしたっていうか。
立花
つまりこういう考え方をする人がいるということを、人間科学が予想するかっていうと、必ずしも予想しないで、集団をとらえようっていうと、そういうことはみんな無駄な努力はしないという原則にしたがって人間集団の行動をとらえようとするとか、まあそういうことがあるわけですね。だけど、無駄な努力が大好きって人も絶対いるんですね。実はその、人間社会全体の振る舞いっていうのは、そういう全く予測不可能な変な人がいることによって、いろんないい、ある面は非常に悪い結果をもたらす系として動いているっていうことがあるわけですね。
発表者
この本の中でも3章で言われてますけど、生物というのは決して最適化を狙ってるわけじゃない。そういう話もありまして、色々細かい話をしてる時間はないですから、どちらかっていうとこの本の中で、何とかの用語が分からないとかどこどこの文章の指してる意味が今との話の関連で分からないとか、これと全然矛盾するじゃないかとかそういう場所があったら色々言っていただければ答えますので。
質問者
「創発」に関しての質問なんですけれども、本の中では創発の例としてH2Oの固体・液体・気体となるようなことを扱っていたんですね。それで見る限り、相転移っていうものが、H2Oだと分子のレベルでのくっついたり離れたりだとか、そういうことって書かれていたと思うんですけれども、さっきの説明では、創発っていうのは主体側の問題ではないか、見方の問題ではないかってことを言われてたんですけれども、分子レベルでのくっついたり離れたりも主体側の問題ですか?
発表者
創発を相転移としてとらえるなら、それも一つのとらえかたでしょう。突然の変化、不連続な変化、つまり固体から液体、液体から気体も「創発」ととらえる人もいるし、もう一つの見方としてそれは主体側の見方であるとした後者の立場をとれば、水の相転移も創発ではないとなるわけです。工学の人は世間で何でもやたらに「創発」という言葉が使われていると言っていました。創発の意味は2種類に分けられます。1つは、相転移としての創発。2つめは、主体側の問題としての創発です。
質問者
前者の立場をとれば、分子間の状態を調べればわかりますよね。
立花
ただ頭で考えればそうだけども、現実ではそうではない。相転移が起きてH2Oが氷になる時、過冷却現象が起こることがある。氷点になれば凍るはずなのに、本当に慎重な実験系をつくってH2Oに擾乱(震動などの乱れ)を与えずにどんどん冷やしていくと、これが信じられないほどすごく下がるんですよね。しかも固体でなく液体のままを保っている。これにちょっとした刺激を与えた途端、一気に凍ってしまう。水が氷になる時に起こる現象が、ちょっとずつ起こるのでなくて、雪崩現象で一瞬にして凍ってしまう。この進行する反応系の系が、本当にミクロのレベルでは何が起こっているのかは良くわからない。
普通俗説では大抵のものが説明がついている。けれども、どの現象をとっても時間的にも距離的にも微細なところでは何が起こっているのか良くわからないことが山のようにある。で、この良くわからないところに複雑系があるんです。
質問者
創発=相転移、あるいは創発が主観であるということは、相転移というのも主観的に名付けられたものなのか、それとも水、氷、水蒸気、それ自体が人間の主観なんでしょうか?
発表者
水の話は分子レベルでも対応していることを知っただけということ。統計力学的に固相、液相、気相の相転移に説明がついているといいながら、今の話だと現実のところでは良くわかってない、と。水の流れにしても本当のところでは良くわかってないし、今までは概略的なところで頑張っていて、これからは細かいところに目を向ける時代になってきたのかなあ、というのが感想です。
言葉の問題として、秩序を認識しているかいないかということ。例えば、小学校などでやらされる数字を見つける色覚テストの絵がありますよね、あの最後のページの絵はよくわからないけど、それは正しいというかマジョリティがそうであるというものがありますよね。けれどもそれは認識の問題になるわけです。もし一見ランダムで我々の目には複雑としか見えないものでも、それに秩序を見い出せる認識機構を持った動物がもしいるならば、それは秩序を見ているということになるでしょう。だから創発という現象はそういう曖昧なところに依存しているところがあるんですよね。その動物から見れば水と氷はが同じものに見えるかもしれない。認識機構が違えばそれを違う相と見るかも知れない。ただし、現実問題パラメータなんかとった時に、それが不連続、微分が不連続になったりするのが相転移という可能性は確かにあるので、パラメータのとり方まで問題が深くなっていく。
質問者
複雑系という言葉を外縁的定義(1つ1つに名前をつけてまず概念化させて独立にあつかう、複雑系は〜である)から使う場合、内包的定義の要素(複雑系とは色々なものの中にある性質であるという考え方)として使う時とあると思う。従ってこれは複雑系でこれはそうでないという区分の場合にも関わってくるんではないでしょうか?
発表者
それは当然本質的にはそうでしょう。ここでいうのは歴史的段階のなかである程度までいったら次の段階では、共通のキーワード、共通の性質を知っていくんですよね。5章の冒頭で良くわからないのですがある意味、性質による複雑適応系の説明になると思ういます。だからよくわからないでしょうが5章は読むことが大事かも知れません。
この本は随分センセーショナル書き方で本質が良くわからないところがある。
立花
いやあ、それは複雑系というのが よくわからないからそうならざるを得ない。今の内包的定義からいくか、外縁的定義から攻めるかということは、ものを考える上で非常に重要なことす。5章で挙げられているような要素は内包的定義の試みですよね。達成されていないけど、どんなものでもそこからあるものにせまるというのは、やっていかなきゃならないわけで、それをやらなければ絶対にそれ以上進めない。そうやっていろんな複雑系、カオスというものの様々な相を知るということによって初めて見えてくるものがあるわけですよね。
アラビア語でラクダを示すのは30だか80だかあるけれども、日本人はせいぜいヒトコブラクダとかフタコブラクダとかしかないわけでしょう。アラビア人はラクダのいろいろなところの違いを表現する言葉の相を持っているわけで、そういう概念というものを持つことであるものの見え方が全く違ってくる。日本人が得意なのは魚の名前ですね。出世魚のブリの系列なんて、まあ間違える人もいるけれども、まあ間違えないですよね。だから言葉というものがあると、それが概念というものをつくってそれを内包的定義でなく、いろんな「それ」を見ることによって、自然にその人の脳の中にインプットできちゃう。ある概念というものの記号的なものができる。それによってはじめてその言葉の属する系列世界をより細かく見ることができる。
で、この複雑系というものも、何にも複雑系について学んだことの無い人には「複雑」という日常用語的な「複雑系」しかないけれども、いろいろな角度から見ていくと、複雑と見られているものもいろいろな角度から複雑さが分析できる。要するに、学ぶっていうことは知的ツールを手に入れることで、その複雑系をいろんな角度から分析していくといろんな複雑系があるんだということを知るんだけれども、それだけでも世界の見方が違ってくるんじゃないかと思う。
質問者
ですけど、創発と相転移のことで、両者が一緒なのはとんでもないと言った学者がいたそうですけれども、相転移っていうのは創発なのかそれとも、創発はカオスの縁の辺りでおこるコスモスとカオスの境界としての相転移のアナロジーとして言っているのかどちらでしょうか?
発表者
カオスの縁についてはまだ曖昧な状況で、関連論文が「随分ある」らしいです。縁の定義とか意味とかで見解が違う。一冊の本と他の本とでは矛盾したことが書いてある。
質問者
相転移という現象自体が創発なのか、それともただのアナロジーなのでしょうか?
立花
アナロジーと考えていいんじゃない。
質問者
それでは水が氷になるのも秩序を得たということにはならないのでしょうか?
立花
それは定義が人によって曖昧。そういう人もいれば、そういわない人もいる。いずれにしても似た現象としてとらえているからアナロジーだと思う。
発表者
創発という言葉も日本語だと訳語だから聞きなれない言葉だけれども、むこうでは、Emergency という日常用語です。
立花
大体日本語と外国語とではそういうところがある。日本人が哲学用語と思っている大抵のものは日常用語なんだよね。
発表者
今日のは複雑系以前のことをやろうと思って、今わかろうとしてもわかるわけないんで、考えてみようのという問題提起だと思って下さい。 最後に一ついい言葉があります。「複雑系とは問題を提起することであって、解決を示すことではない」。もっともだと思います。僕が思うには何か1つ専門がないとわからないと思います。1つ専門があって突っ込んでやってみてようやく、今までの科学のやってきた部分と複雑系がこれからやろうとしているものの違いが明確になって、その時初めて自己組織化とか創発とか具体的なものがなんとなくわかってくるんじゃないかと思います。
参考サイト
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