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今の二十歳へ送る言葉


 君たちが各々の取材対象者に最後の質問として聞いていたように、私も自分の〈二十歳のころ〉のインタビューの中で、二十歳のころの人たちに対するメッセージのようなものとしてどんなものがあるかという質問を受けた。そのことについては、前々から最終回の講義で話そうと思っていた。まずは『ハムレット』の一節を見て欲しい。

ポローニアス:

ついでに一つ二つ教訓を言ってきかすからな、よいか
しっかり胸に刻みつけておくのだぞ。まずおのれの心はむやみに口にせぬこと、
かくべつ過激な考えは実行に移さぬが肝要じゃ。
人には親しむがよいが、狎れてはいかん。
一度これと見きわめた友人は、二度と離さぬように
鋼の鉤でしっかりおのれの心にひっかけておけ。
ただし、よくも知らぬ伊達者どもを次から次へ迎えいれて、
握手で掌の皮ばかり厚くするのは禁物だぞ。よく用心して
喧嘩の相手にならぬがよい、しかしいったん始めたら、
徹底的にやれ、その後相手がお前を用心するようにな。
誰の言うことにも耳を貸せ、だがこっちの考えはできるだけ言わぬこと。
つまり誰の意見でも聞くが、自分の判断はさし控えておくのじゃな。
服装は財布の許すかぎり立派なのを揃えるがよい、
が、奇抜なのはいかんな。要は立派で、しかもけばけばしくないことだ。
衣装というものは往々着る人の人柄を表すものじゃ、
それにとりわけフランスという国は身分の高い人々が
総じて衣装には費用を惜しまぬふうがある。
それから、金は貸しも借りぬもせぬがいちばんじゃな。
金を貸せば、その金ばかりか友人まで失くしてしまう。
また金を借りると、とかく倹約心がにぶる。さて、最後に
一番大事なことは、おのれに誠実なれ、ということだ。
さすれば必ず、夜が昼につぐごとくにじゃな、
他人に対しても誠実ならざるを得ん。
さあ、往け――願わくばこの訓戒がお前の心に刻みつけられますように!

シェイクスピア『ハムレット』より
 これは、私自身が二十歳のころに父親から、「お前に言うことはないけれども、これだけは読んでおけ。親が子供に伝えるべきことは、これで全てと言ってもいいんだ」と言って手渡されたものである。父はもともと大変シャイで、ほとんど口をきかない人だったが、二十歳の時にこういうものを渡されて、そういう言い方をされて、私は非常にびっくりした。確かになかなか、そういう意味合いの台詞として有名な部分がある。
 一応簡単に説明すると、ポローニアスの息子レアーチーズがフランスに旅立ち、しばらく国を離れることになった。その旅立ちの時に、家庭かつ宮廷という狭くて住み慣れた暖かい空間から、はじめて社会に出て行く息子に、父親としてこれだけは注意として与えておきたいという台詞である。旅立つ息子に対して、これから生きていく上での教訓を言って聞かせ、それを胸に刻みつけておくんだぞと言っているわけだ。

 一般的には結構いいことを言っているが、必ずしもこの部分全部を僕もそのまま君たちに贈る言葉として渡そうとは思わない。例えばまず、「おのれの心はむやみに口にせぬこと」。私は全くこの教訓を守ったことがなく、自分の心を素直に表現してしまう方だ。社会に出て生きる上では、なるべく自分の心を表に出さないほうが有利だという面も確かにあるが、それはある意味では本人自身が決める問題だと私は思う。
 ただ、彼がここで言ういくつかの台詞の中には、確かにこれは重要だという部分がある。まず一つ目は、

喧嘩の相手にならぬがよい、しかしいったん始めたら、
徹底的にやれ、その後相手がお前を用心するようにな。
 これは本当にその通りである。喧嘩は基本的には避けたほうがいい。しかし社会に出ると、どうしても喧嘩しなければならない場面もある。その時には勝てということだ。だから言ってみれば、負けるとわかっている喧嘩は絶対に避けたほうがいい。どうしても喧嘩しなければならないときは、とにかく勝つ。勝つための戦略を徹底的に考えて、勝つ。自分の人生を賭けるような喧嘩っていうのは、結構いろんな人がいろんな場面でしなければならないということがある。あるいは喧嘩したほうがいいのだがどうしようと迷って結局しなかったりとか、自分が生きているこの場面の筋道ではこの喧嘩は絶対やるべきだと思いつつ勝てる見込みがないから後込みするとか、いろんなケースがある。ただ、いずれにしても、喧嘩をしなければならない場面には必ず出会う。その時に、そこをいい加減にしておくと、将来相当悔やむことになる。もう一つは、先ほど勝てない喧嘩はやるなと言ったが、人生の中では、これは絶対負けると分かっていても、これはやらなければならないと思う喧嘩もある。それでも、徹底的にやるときはやれということだ。
 そしてこの教訓の最後のほうに、
一番大事なことは、おのれに誠実なれ、ということだ。
さすれば必ず、夜が昼につぐごとくにじゃな、
他人に対しても誠実ならざるを得ん。
とある。己に対する誠実さというのは非常に大切だが、ただ、どうあることが己に対して誠実なのかということは、実はなかなかよくわからないことなのだ。というのは、人間はみんな、自分自身のことをわかっているようで、実は一番よくわかっていない。脳神経関係や認知科学が発見してきたことというのは、人間とはいかに内部矛盾をはらんだ存在だろうかということを表している。人間の脳の構造というのはマルチエージェントの構造になっており、これが極端な形で出てくると多重人格になるわけだが、そこまで行かなくても基本構造としては人間はみなそのような構造を持っている。自分の心の中に、いわばいろんな他者が住んでいる。そしていろんな他者という表現は本当は間違いなのであって、その全てが自分であって、自分の心の中にあるいろんなエージェントが相互情報交換などを行うことによって全体を決めようとしている。だから人間はいつも心が乱れた状態になるのである。
 一番大事なことは、己に誠実なれということだが、自分自身の混乱状態というのを自分自身で分析し、もっと自分というものを深く知らないと、己に誠実であるということがどういうことかということは、なかなかわからない。

 それからもう一つ贈る言葉は、聖書のマタイ伝の第10章のところである。ここは、イエスが自分の弟子達を送り出すところで、それまで弟子達はイエスに付き従ってきて直接の薫陶を受けていた。しかしこれからは一人一人バラバラになって世の中に出ていき、自分の教えを述べ伝えよという場面である。ちょうどポローニアスが息子を送り出すのと同じように、イエスが自分たちの弟子を社会に送り出すというときに与えたという注意がここにでてくる。  重要だと思うところの一つ目は、第16節の

 「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」

聖書マタイ伝十章十六節より
というところである。世の中には、本当にどうしようもないやつが山のようにいる。鳩のような心を持った、ナイーブな素直なだけの人間のままでいたら、ただ狼に食われるだけみたいなところがある。どうしようもないやつが山のようにいる世界であるから、やっぱり蛇のように賢く対応しなきゃいけない部分が実際に数多くある。
 でもそれだけではだめで、同時にはとのように素直な部分がないと、人間の生き方としてはよくないと思うんですね。鳩のように素直というのは多くの含みがあって、ナイーブさということにもつながると思う。心のナイーブな部分を持たないと、蛇のように賢いだけで生きる人生というのも、非常によくない人生だと思うので、二つのところを同時に持てということだ。
「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」
聖書マタイ伝十章二十八節より

 要するに、他人を恐れるなということだ。田中角栄が死んだときに『角栄との二十年』という文章のなかでもこれを引用した。私は世俗的な権威をまったく恐れないように育てられたきたが、実際恐れる必要は全くない。

「私は学問の世界においても、妙な言い方だが、雑木林をもって理想としている。さまざまな生き物が、大きな動的な調和の世界でおのれの命を強くたくましく生きている姿は、それぞれの個性や資質を果てしなく伸ばしていこうとする人間の姿を彷彿とさせる。学問は元来、そういう人間の中から創られ支えられてきたものである。見渡す限り同じような動植物に統一された純林のような学問世界からは、学問を力強く発展させる独創性は生まれてこないだろう。
 独創性という言葉は、今やこれを口にすれば現代人の仲間入りができると錯覚される程に流行しているようである。しかし、独創性を育むには、それに適した“林”が必要であり、同時に個個人が旺盛なる探検精神に目覚めることが大切であろう。探検とは読んで字の如く未知の世界を探り、探りあてた新しいものを検べ、創造的な世界を生みだすことだ。そしてこれを行う者は必ずやつきまとう危険を独力で克服していく知力と強烈な意志を必要とする。つまり冒険の中に身を置くことに、あえてたじろがない心が要求されるのである。
 探検そして冒険は、若い人たちの特権である。学問の世界においても、若い人のもてる探検と冒険の精神が高らかに鼓舞される必要があろう。」

河合雅雄『学問の冒険』より

 雑木林というのは現実の生命世界のありかたそのものだ。生命世界ではダイナミズムと様々なファクターが入り組んでしかも調和を保っている。一旦社会に出ればこの世界が雑木林であることは容易にわかるのだが、アカデミズムの世界では、純林をもってよしとすることが多い。
 今の日本の知的社会のいろいろな面で独創性がないと言われている。独創性が生まれるためには雑木林的世界がベースにあり、かつ個人が探検することが必要だ。私の人生は広い意味での探検に費やされたと自負している。探検というのは同時に冒険をすることであるけれども、それをやろうとする人間にはたじろがない心が必要だ。

 河合さんには会うたびに教えられることがある。彼の著作集のパンフレットに「河合さんに直接教わったことはないけれど、常に先生だと思ってきた。」と書いた。自分には先生だと言える人が何人かいていずれその人たちの列伝を書こうと思っているのだが、河合さんはその中の一人である。

考えてみると、私はすでに君らの親父ぐらいの年である。私はこれまで若い人と全然付き合いがなく、実はあまり若い人が好きじゃない。でも、いろんな経緯があってたまたまこういう授業をやることになったのだが、こうして一年間やってみて、非常にいい経験をしたと思っている。それと同様に父子関係のような年齢の幅があると、ポローニアスではないが、君達にこれだけは言っておきたいということがいくつかある。


《ニッチの発見》

 どんな生物でも単独では生きられない。どうしても生態系の中である場所を、そしてある地位を占めざるを得ない。このような、生態系における生物の身の置き所を生態学の用語でニッチと呼ぶ。
 生物にとって重要な問題はあらゆる自然環境の中でどこに身をおくか、つまりどこにニッチを定めるかということである。たとえば、食う食われるの食物連鎖の中でどの位置を占めるか、あるいは高温層と低温層の中でどの温度層に身をおくかという問題である。これは生物としての人間にも当てはまる問題である。ただし、人間社会というのも一つの生態系であるから、人間にとってはこの社会で自分がこれからどこに身をおいて生きていくのかが重要になってくる。

学生というのはまさに社会に出る一歩手前にいる。そうすると君たちは社会に出てどこかにニッチを見つけなければならない。おそらく学生時代で一番重要で、かつ必要なことは、これからの自分の人生におけるニッチの発見だと思う。ニッチの発見というのはどうやって食べていくかという問題に直結する。食べていくには、大ざっぱに分ければ頭で生きていくか、肉体で生きていくかしかなくて、東大に入ってしまった人たちは今更肉体で生きていこうと思っても生きていけない。ただ、中には肉体で生きていく人もいて、東大出た後プロボクサーになったり、炭坑夫になったりという人もいる。そういう特異な例をのぞけば、もうあなた方は頭で生きていくしかないわけだ。

では、知の生態系の中でどのようにして自分のニッチを見つけるのか。それにはまず知の生態系を取り巻く全体のパースペクティヴを得なければならない。このパースペクティヴを得た上で、自分がどのニッチを選択しなければならないのだ。ただし、今の社会ではこのパースペティヴはなかなか得られない。今の受験制度では、私はおかしいと思っているのだが、高校に入るとすぐに自分はこの方向に進むんだということを決めてしまうが、そんなことはとても決められるわけがない。教養学部においても、たった一年間で自分が進むべき方向を決めなければならない。その場合、知の世界の全体像をつかんだ上で決めているかというと必ずしもそうではない。それはこのようなパースペクティヴを得させるような教育が全然ないからである。だから、将来になって自分の選択を誤ったという人が少なからず出てくるはずである。

 もう一つ重要なのは、自分自身を知るということである。自分自身がどういう欲求を持っているのかを知っておく必要がある。もちろん自分自身を知るには知の全体像を知っておくことが前提になるのだが。
 それから自分自身の能力を知ることも大事である。社会というのは全体的なシステムになっているから、いくら大学教授になりたくても、官僚制度の中でどこかのポジションに入りたいとしても、自分の欲求通りになるとは限らない。そういう社会側の要請も考慮しなければならない。
 これらがすべてニッチを選択する際の拘束条件となる。拘束条件を自分で把握して数え上げて、その上で選択をやらなければならない。

 さて、上記のことは人生の中で選択するときの必要条件となるが、これだけでは十分ではない。人生の中ではどれが正しいか分からないけれども選ばなければならない、いわば「見切り発車」しなければならないときがあるのだ。その場合、可能ならば、やりたいことをやる。少なくともやりたくないことはやらない。この二つの対の命題が、私にとっての原則である。ニッチの選択の誤りによっては、やりたくないことをやらされることがある。たとえば、死刑の執行人なんてやりたくなくても選択を誤ればやらなければならなくなるだろうし、官僚制のあるポジションに着く場合にその中身を知らなければやりたくないこともやらなければならなくなるということがあるのだ。


《生き方の美学を作れ》

学生時代に能力をいろいろ身につけるのは大事だけれども、それ以上に大事なのは自分の生きるための美学を作る事である。つまり、自分の生き方をして こういう選択はする、こういう選択はしない、そういうものを作れ、ということだ。それは、肯定命題でも否定命題でも書くことができる。これだけはやる、という命題の他にこれだけはやらないという命題、どちらも大事なことだ。
哲学の歴史の中に否定哲学、否定神学という考え方があって、それは「神様とは少なくともこういう存在ではない」、そういう否定命題でしか、人間の言葉で神様を記述することはできない、肯定命題では神様は記述できないというものだ。同様にして、自分の美学を否定命題の方向から浮き彫りにしていくことが出来ると思う。

 美学を作るには、いろんな人の生き方を学習しなければいけない。周りの人間を見る方法もあるけど、やはり文学がすごく役に立つ。結局文学とは、人間とはどう生きるべきかを、フィクショナルではあるけれども読者に提示するものなのだから。学生のうちにいい文学に触れておかないと、自分の美学を形成し損なってしまう。

 人間社会は、今情報という視点から見ると大きく変化してきている。知的世界が、情報が主体となって動いていく中、相当変わったと思う。学生が学ぶということは、その知的世界の中に入っていくということである。かつては世界の人間が地域的なまとまりしか持っていなかったけれども、現代は本当のグローバルな社会、特に知的状況の中では完全に一つの世界として成立している。そしてその一つの世界を人類全体が共有して利用しあっている。
 言語学の世界で、ある領域の世界の人間が使う言葉の全集体をコーパス(corpus:ラテン語で肉体、の意)と呼んでいる。人間が使うすべての言語のすべての概念を寄せ集めれば、それは人間言語すべてのcorpusとなる。実際、様々な世界で、その世界を構成している言語を集めるという試みがなされている(例えば医学用語のcorpus、など)。人間の知能をどうにか記述し体系化することで、それを材料に先程も述べた人工知能の研究を進めていこうとしている。
 歴史的にもまた今現在もそうであるが、この人間の知のcorpusはどんどん膨らみつつある。知の世界に入っていき、またその中で生きていくには、知のcorpusがどういう状況にあるのか、そのパースペクティブを見ていなくてはならない。特に何らかの専門分野の住人になるのであれば、その分野は特に詳しく見ていなくてはならない。

 ちょっと違う例になるが、実は人間の肉体には充分な血液がない。つまり人間の体のすべてのシステムを高い活性度に保つのに必要なだけの血液がない。だから脳が血液の振り分けを行っている。要は、いまは胃袋が血液を必要としているからそっちへ行け、と言った指令が脳から出されている。ごはんを食べた後に眠くなるのは、血液が胃の方へ集まってしまって脳に充分な血液が供給されないからなのである。
 同様のことが、知の世界でも起こっているといえる。今人類全体が共有している知のcorpusを維持し、拡大していくのに充分なだけの知的マンパワーが絶対的に不足しているのである。こういった知的マンパワーは人間の脳みそが血液の振り分けをしているように誰かが指令を出しているわけではなく、個々のメンバーの意志にかかっている。つまり、それが先程のニッチの選択にもつながるのだけれども、全体像がダイナミックに変化しているところでは、何をやるべきかという選択が何度も何度もあり、全体像が見えていなくては、本当に自らの正しい道が分からない。じゃあ、全体を把握するために何が必要かといえば、それは「走り続ける」ということである。


《走り続けろ》

 『鏡の国のアリス』に出てくる赤の女王は、その世界で一ヶ所にとどまるためには走 って走って走りつづけなければならないと言っている。この作者のルイス・キャロルは 数学者で、彼の話はある数学の世界の言い換えをしているのだ。

 拡大しつづける知の世界に追いつくためには、常に走りつづけなければならない。例 えば情報科学や遺伝子学などの分野がそうだ。学生の時は、その変化の激しさを本能的 に察知するものである。

 人間が走らせている系のことを、私は『世界マシーン』と呼んでいる。世界マシーン は土台にcorpusがあり、それが元々のガイアと一緒になって世界を形成している。今ガ イアは自然物と人間の関係したハイブリッドとなっているが、その中では、人間系と人 間が知のcorpusの上に作る人工物系が大きくなり、もとの自然に対して人間の属する方 がある意味で比重が大きくなっている。今このcorpusが爆発的進化を遂げている、とい う基礎知識を君たちは持たなければならない。

 自分がどの世界に属するにしても、世界マシーンを把握しなければならない。そのた めには走りつづけなければならない。エキスパートとして接しているわずかな人以外、 上の世代の人はもうほとんどが乗り遅れてしまっているのだ。例えば、分子生物学など はほとんど一般に知られていない。『精神と物質』で対談した利根川進さんは、大学の 教養課程で生物は全部細胞でできていると知って驚いたというが、当時はこれでも同世 代の中では知識のある方だったのである。

 今、走りつづけずに止まったまま社会に出てしまう人が大半を占めている。中国哲学・ 印度哲学などというように、あとは知識を蓄積するだけで停滞している分野もあるが、 最先端の膨らんで行く知識についてはみんな止まったままだ。君たちはcorpusの大変化 を把握しつづけていなければならない。そのためには知的に走りつづけなければならな い。


《価値体系》

 先程述べた「美学」とも関わるが、まだ若いうちに自分の価値体系を作り上げておく必要がある。
 教育においては、人間はホモ・サピエンスとしてのみ捉えられているように見受けられる。知の角度からのみ人間を捉え、その知識を教える/教わることによって成立しているのではないか。人間には作る・感じるなどのさまざまな側面がある。人間はホモ・サピエンスとしてのみ生きるわけではない。

 生きていく上で、人間はどのように決断を下すのだろうか?
 ほとんどの人が、知だけでなく、総合的人間性から抽出される、言葉では記述しにくい価値体系を持っている。その価値体系は、たいていの決定の背景にある。学習によって身につける部分もあるが、もっと原初的な、生得的部分も多い。生得的と言ったのは、DNA上に生まれながらに刻まれているという意味である。その刻印は、価値体系全体の機縁となる。
 人間には生まれつきさまざまな系があり、行動を決定している。それは古来「神様の贈り物」と認識されてきたが、今はDNAがその役目を担っているわけだ。
 脳の中でも、大構造=各器官の位置などにはほとんど個人差はない。神経回路も、発生過程でみんなほとんど同じものが生成される。例えばシナプスを切断する実験(もちろん人間でではないが)をしたとしても、必ず修復されて元のままに戻る。これは、先天的に決まった構造をなぞっていると言えるのではないか。進化の過程で、このような構造を作るものが生き残ったと考えてもいい。

 「生存」は生物の最重要目的であり、価値体系においても最も優先される事項である。
 価値体系は、複雑な階層構造で成り立っている。一番底の部分は原初的/先天的部分に近く、逃げる/攻撃するなどの行動の引き金を引く。その上部に学習による成果が積み上げられていくのだ。緊急の時には下部の判断が優先され、行動につながる。しかし学習によっては、上部の判断を行動に直結できるようになるかもしれない。下部が「危険=逃げる」と判断しても、上部の「敢えて戦う」という判断の方が実際の行動となることもあり得る。
 成長とは、価値体系の構造を上へ、上へとビルドアップしていくことではないか。学習によって自ら獲得し、選び取ることができる「上」こそが自分といえる。
 広義にとれば、各人の全体験が学習行為となる。自分に何を体験させるか=時間をどう使うか を決められるのは、自分自身以外にない。成長過程のある時期(中高生か)からは、教えられることよりも自己学習の方が重要になる。自分の時間によって自分に何を与えられるかが、ビルドアップの過程である。
 文化とは時間と金の使い方であるともいう。限られた時間という資源をいかに使うかが運命を分ける。脳の可塑性は年齢とともにどんどん減少していくが、二十歳前後にはまだ十分にある。世界の見方や概念を大きく変えられる時期である。
 価値体系の上部構造は、自分の望むように変えられる。自分で自分を作ることができる時期にあることを自覚してほしい。

 どんな領域に生きることを選択したとしても、最前線に出るのが絶対に面白い。いま目の前でアクティブに動いている領域、フロンティアに飛び出すことを勧める。

《世俗的な成功を求めるな》

 成功は、成果を出せば必ずついてくる。初めから世俗的成功を見込んで自己形成することは、どうしようもない人間になることにつながる。

《失敗》

 君達が、これからどういう人生を歩んで行くにしろ、薔薇色だけでやっていける事などない訳で、大失敗から中小失敗まで色々あると思うが、ほとんどの人が必ず失敗する。その時に、失敗からどう立ち直れる自己形成をするか、いかに回復できる人間を作りあげていけるかが、自己の精神体系をビルドアップしていくという意味でも、非常に重要な事であるから、絶対心にとめておいて欲しい。

 私が、「この人は私にとっての先生だ」と思える人の中に、ロッキード裁判の大久保被告がいる。彼の人生は、ある意味完全な失敗であった。大久保利通の孫として名家に生まれながら、ロッキード事件に巻き込まれ、有罪になった。それまでは結構いいポジションに就いていたのだが、事件があってからは、世の中に対して全く何もできなかった人だった。
 裁判で私が見た大久保被告は、その姿、振る舞い、すべてが実に見事な人だった。彼は、他の被告人達がこぞって罪を逃れようと、虎視耽々としていた中に唯ひとり、断固として真実を告白し続けた。堀田検事の力によるところも物凄く大きかったのだが、あの裁判を本当に支えたのは、やはり大久保被告であったと思っている。人生の大失敗の後で、なおかつああいう生き方ができる人というのは、本当に尊敬に値すると今でも思っている。
 大久保被告は、あのような事をやりたいとは微塵も思っていなかったのだろうが、彼の立場では、影で罪に問われるような事でもやらざるをえないという境遇にあった。彼自身、その事は一生悔やんでも悔やみきれなかったであろう。
 いずれにせよ、世の中の社会には、このような失敗を起こさせるような誘惑は至る所にある。特に君達の場合には、ある組織の中で、将来リーダーシップをとらざるを得ない立場におかれる可能性が高いと思うが、そういうポジションにおかれた人間というのは、余程しっかりしていないと、自分が正しいとは思わない事をやらされる立場に引き込まれてしまう。将来、いろんな誘惑の落とし穴が必ずあるのだから、君達はそれに負けない強さ、抵抗力を身に付けていかなければならない。

 次に言いたいのは、自分が犯した失敗を隠すな、と言うことである。かつての社会では多少の失敗を隠したままでも、生涯うまく生きていける事があったかもしれないが、今は決してそうではない。ある組織のハイポジションにいる人などは特に、周囲の目が一段と厳しい中にいるわけだから、隠し事をしてもすぐばれてしまう。さらに会社の社長や、厚生省の次官などのクラスになると、これが社会的な出来事になって、しかも失敗のスケールが大きければ、マスコミなどによって大々的に報道されてしまう。
 世間の面前で失敗を犯した時に、自分は一体どう身を処すべきか、ということは、自己の精神体系のビルドアップの過程で考えておかなければいけない、大切なことであろう。  また、自分は常にいろんな人から見られている存在である、という意識を持つ事は、非常に重要である。社会的に高い地位にたどり着く人間というのは、同時に社会からの目の存在がどんどん大きくなるようなアウトプット(これには色々な形態がある)を出し続けなければいけない立場にあるといえる。私が盛んに自分の名前をだしてものを書き、インターネットにのせ、そういう事を奨めるのも、この為でなのである。

 ちなみに私が学生の頃、自分が読んだ哲学の本に、エピクロスの思想があった。哲学者というのは、だいたい思想と、生き方の両方について持論を展開するものだが、彼の生き方について述べた論の中に、隠れて生きよ、という銘があった。これを大変気に入った当時の私は、「あ、これで行こう」と思って、世に全く知られない人間として生活をし、またそれをエンジョイしていた。しかしそれでも人生のどこかで、隠れていられない、という場面を押し付けられることがどうしてもある。それ以来私は、何も包み隠すことなく生活している。

 人間に一番足りないリソースは、やはり時間であろう。自分の持てる可処分時間の選択を、日頃からしておくべきだ。

 余談だが、生物の細胞分裂の回数には限界がある。人間の場合約50回であるが、これは細胞内のある遺伝子の端の部分、テレメアに、細胞分裂の回数を数えるカウンターがあり、一回分裂するたびに、その部分が少しづつ消えていくのである。このことからも、自分が時間を使う時、残り時間が徐々になくなっていっているのだ、という意識が持てると思う。
 自分の一生に残された時間、というよりも、例えば君達の場合であれば、大学を卒業するまでにあとどれくらいの時間があるか、というように、ある一定の期間において、その間に自分がやりたい事として何があるのか、あとどれくらいの時間が残されているのか、ということをを常に考えて生活していかないと、人生というのは、あっという間に過ぎ去ってゆくものである。
 私自身、今頃になって、相当無駄な時間を使って来た。もっと前から、時間をうまく使っていれば、もっといろんな事ができたのに、と思っている。こういう心理は、君達にはまだよく分からないだろうが、本当に時間というのは、あっという間に経って、あっという間になくなるものなのである。
 人間、自由な時間があると、わりとくだらない事をやって無駄な時間を使っちゃう、ということが結構ある。しかし、ある特定の期間にこれだけはやっておきたい、という事が具体的にリストアップができていないにしろ、冷静に考えれば、プライオリティの順番はつけられるものである。
 私の場合には、いろんな原稿の締切がきて、しつこく催促される、という外圧があるから、自然とプライオリティが高いものからやらざるを得ないが、一般には、その様なプレッシャーはないから、自分で律していかなければいけない、この事が大切なのである。


《マクロスコープで物事を見よ》

 先学期から話していることだが、物事をマクロスコープで眺めるということは非常に重要である。マクロスコープは実在するものではない。自分の頭の中に作るものである。マクロスコープで視野を広げることによって、ある物事がどこに位置するのかが見えてくる。さらに、時間軸、空間軸、領域軸とさまざまな位相からマクロに見ることによって多くのことが見えてくる。物事を考える時にしょっちゅう立ち止まってマクロに眺めるように心がけ、考えを転換してみることが問題の解決につながる。

 人間の物理的視野というのはかなり広い。しかし、非常に高い解像度を持っているのは視野のごく一部で、字を読む時などはこの部分を振り動かして見ている。他の解像度の低い部分はバックグラウンドでしかない。しかしこのバックグラウンドがないと、物事を認識することが出来ない。
 これはいろいろな領域でいえることで、背景とその中のものの位置が掴めていない、つまりマクロに見えていないと誤った判断をしてしまう。

 問題を解決する際に重要なことは、解空間の所在を突き止めることである。解空間とは、問題の解が存在する空間のことである。この空間外で解を探しても無駄である、が、実際にはそういうことが多々ある。
 知の歴史を見ると、解のない空間をさまよっていたということがよくあることが分かる。例えば、永久機関。昔はこれを探し出すことに一生をかけたひとが大勢いた。しかし、永久機関というものが存在しないことは熱力学第二法則で証明され、それ以来永久機関を探す人はいなくなった。永久機関を探すということは解のない空間を探し回っているということだったのだ。
 こう考えると、複雑系の果たした功績というのはある意味で、解のない領域を発見したことだといえるかも知れない。例えば、「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークにつむじ風が起こる」可能性があることをカオス理論が示した。これは、そこには普通の意味での解が存在しないということを示したとも言えるのではないか。

――最後に――
「二十歳のころの第1・2集に登場した水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』は読んだ?あれでは、化け物との戦いが終った後、たいてい『今回もまた苦戦だったな』って言うでしょう(笑)。本当に人生って言うのは苦戦の連続だよ(笑)。それはもう、しょうがない。君達の年代にとって一番大切なことは、苦戦を切り抜けさせる内的なエネルギーを持続させる精神を自分に作ることだと思う」


Any questions or comments, please send mail to:
l72106@hongo.ecc.u-tokyo.ac.jp

文責:岸本 渉・佐藤 智行・緑 慎也・菊地 悠・鈴木 裕子・平尾 小径・安田 亨


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