第一回講義

第一回目ということで、溢れんばかりの人が来るかと思い400人収容できる大教室を使ったのですが、始まる時間が遅い(18時開始。通常この時間に講義は無い)ためか全体で100人にも満たなかったようです。そんな中、これから参加しようとする学生に向けて講義は行われました。
謎の空白時代

 東大には進振りという制度があり、学生の中にはこれにばかり気をとられている人が多い。どの科目で何点とればいいとか、特定の科目で良い点数を取るためにはどうすればいいとかものすごくばかげたことが蔓延していて、これは本当に駒場(註:主に東大1、2年生の通うキャンパス)の堕落だと思っています。僕はガリ勉っていうのがあまり好きじゃない。ガリ勉だけでずっと来た人はもうここ止まりです。未来はないですね。そういう人はあまりこの授業には関係のない人だと思います。今年は大変厳しいといったのは、一つにはこの授業は週2コマ(月曜と金曜)あるということです。去年の暮れに皆で話し合って決めたのです。ただし、月曜の方は学生が主体で実践活動の場ということになっています。
 駒場に入って何が一番価値のあることかといったら、それは先生ではありません。一高時代から皆がそう言っていますけど、学生同士がお互いに刺激を与え合うということがものすごく大事なことなのです。授業だけをいくら聞いてもそれだけで卒業したなんていうのは愚の骨頂です。本当に良い友達を見つけて相互刺激ができる、そういう2年間を送るべきだと思います。その点、この授業は半分サークルのようなものです。ゼミの発端は、去年の夏学期の初めに「インターネットで発信するつもりだが、学生の手伝いがないとやっていけないからやる気がある人。」と募集したときに集まった50人くらいの学生です。これがなかなかできる連中で、ページを見れば分かりますが3つのグループに分けて3通りのページを作ったりしています。非常にアクティブな連中で、僕はそれまで若い人ってのはそんなに好きじゃなかったし特に東大はだめだと思っていたんですけど、「おお、東大なかなかやるじゃないか。」という印象を持ちました。
 去年の冬学期は「二十歳のころ」という冊子を作りました。これは習作のつもりで始めたのですが大変面白いテーマだったため熱中してしまい、これだけで冬学期は終わってしまいました。内容的には玉石混交ですが全体としてはかなりの水準だと思います。今のところ第3集までできています。残っている原稿もあわせると村上春樹の『アンダーグラウンド』くらいの相当な本になるはずです。第3集の序文にも書いているのですが、私の著書の一つの『青春漂流』という本は全体はともかく、あとがきは非常に良いものです。要約するとこういう事を言っています。

 空海は遣唐使で中国にわたるまでのごく若い時の消息は分かっているが、ある時突然留学僧になって唐に出ている。この間どこで何をしたのか全然わからない。空海の謎の空白時代と呼ばれている。この時代の直前までは寺の小僧かなんか、その程度の人間だった。それが、唐に渡ったとたんに彼は中国語ぺらぺら、サンスクリット語ぺらぺらになっている。空海は途中から遣唐使に入るのだけれども、中国語ができて便利だから連れて行こうみたいな理由で選ばれたんだと思う。それが中国にわたったとたん向こうの高僧達とぺらぺらしゃべって、これはすごいやつが来たと一挙に認められた。中国密教のトップのKeikandaiと言う人が自分の弟子達には密教の一番深い奥義を授けずに、日本から来た空海に全部授けるといって筆頭の弟子にしてしまった。この謎の空白時代に彼が何をやっていたのかはわからないのだけれども、この間に自分自身のすさまじいBuild Upをどこかでやっていたのでしょう。
 優れた人たちには大体この謎の空白時代というものがあります。二十歳前後から始まってある一定年齢までにものすごいものを内部で蓄積する。『二十歳のころ』で取材して面白いのはそういった「making of その人」を聞けるからです。君らも四十歳とか五十歳とかになって何がしかの人間になった時、二十歳ごろに何を考えていて何をやっていたかなんてだいたい分からないんですね。相当の人でもそこに焦点を当てて話を聞かれるっていうことはめったに行われないから、謎の空白時代になっている。その間に、つまり今の君たちにそのbuilding-upができるかどうか、それが今の問題だろうと思います。

 今、君らの脳波は大人の脳波ではない。どういうことかというと、脳というのはものすごい可塑性がある。脳細胞の神経連絡網が組み替えをしょっちゅうやっている。何かを学ぶ時というのは組み替えをどんどんおこすという過程なんですね。それがものすごい勢いで行われるのは一つは幼少期、もう一つは君らくらいの年齢のときです。しかし、君らくらいの年齢では受験勉強ですっかり頭が固くなってしまう人もいます。数歳の時に知恵熱が出る人が多いですね。知恵熱というのは脳での神経回路のbuilding-upと組み替えがものすごい勢いで行われて熱が出るのです。この中で相当の人が1、2年の間に知恵熱を出すはずです。物理的に熱が出るかどうかは別として、自分に焦りを感じるくらいあれも知りたいこれも知りたいと頭がワーッとなってほとんどパンクしそうになるというそういう現象が起こる。これはある意味で必然的な過程です。東大に受かったから自分は頭が良いんだろうと思ったら結構大間違いでして。だって今、東大生は一学年三千何人もいるんでしょう。一高時代なんて三百人ですからね。悪いレポートの中には「私は東大に受かった人間であるから世間の水準からすれば相当頭が良いはずである。だけれど、この文章は分からない。だからこの文章はだめだ」とか、本当にそういう事を書いたやつがいるんです。
 2年間駒場にいるわけだけれども、ここはすごく面白いところでもすごくだめなところでもある。先生もそう、学生もそう。だいたい半分はだめだと思った方がいい。半分よければいいほうです。大学は巨大組織です。大きな組織で使い物になるのは本来5%にすぎないんです。不思議な現象でして、優秀なやつばかり寄せ集めるとパーセンテージが上がるかと思えばそうではない。トップ5%が組織を引っ張るような奴で、後はどうってことない連中で、残りの5%は足を引っ張るだけ。複雑系で引き込みっていう現象があります。物質系でも非物質系でも振動現象をおこしてる系がものすごく多い。多数のエレメントが振動をおこす場合に不思議なことに引き込みという現象がおきて、バラバラだったものがだんだんまとまったグループを作りはじめる。人間社会でも広義の振動現象そして引き込み現象が起きているのでしょう。
 世の中には、大学に入るまでは受験に頭がいっぱいで、大学に入ってからは進振りに頭がいって、卒業すれば就職に頭がいって、就職すれば昇進に頭がいってという人がたくさんいる。そういう人は本当に一生それで終わりです。それしかないからね。このゼミはそういう人生を送りたくない人間のためのゼミなんです。青春漂流から引用すれば「空白時代で何より大切なものは、なにものかを求めんとする意志である。」ということです。

文理の分離

 そもそも大学が果たさねばならない機能とはなんだろうか。人類はある時期から知の共同体としてやってきた。知の共同体では、知を世代を越えて伝承していかなければならない。これが初・中・高等教育の果たす役割。知の共同体における大学の役割は、知識を伝承する寺子屋のような役割ではない。高等教育を支えている先生を自己生産するという役割です。それから、研究。研究は大学以外でも行われていますが、その人材を供給しているのはやはり大学。知のコンテンツの再生産と人材の供給、この二つが大学のおおきな役割です。
 しかし大学に入る時点で非常におかしなことがおきている。今研究の世界では文理の分離が最大の問題になっていますが、あなたたちは高校のごく初期の段階で文系と理系に分けられるでしょう。C.P.Snowが『2つの文化と科学』で指摘しているように、分離の結果、本来持つべき基礎的なジェネラルな知識が与えられていない。これは非常に困ったことです。去年文理シナジー学会というものができました。二つの世界を融合させない限り新しい文化はできない。文科でありながら理科の知識を持ち、理科でありながら文科の知識を持つという人間こそ社会の担い手となるべきだということです。
 去年の講義内容も相当理科系の話です。文科の人から全然わからないといわれたことがありました。最高学府の東大でさえこれです。僕がしゃべっていることは少なくとも文科でも分かるだろうと思ってしゃべっている。これが分からないのでは将来ゆゆしい問題となるという感じがします。大学や国立の研究所で行われるサイエンステクノロジーに対しては国から金が出ているのです。その金を配分するのは専門の官僚です。その官僚の知識の水準が低い。金の配分はいいかげんということになります。研究領域を支配しているボスに金が左右されるというようなことがおきてしまうわけです。日本の科学研究のバランスが歪んでいる。企業でも同じだけれども文系で官僚になるという人は理系の知識がものすごく必要とされる。なのに大学は分離の方向。大学教育はどうあるべきかを議論している連中が分離の中で育った人ばかり。そういう偉い連中は非常に狭い先端部分の領域に住んでいるわけです。そしてそれが最善だと思っている。領域が細分化されればされるほど今度は人材が不足します。自分のフィールドが人材不足になると、もっと若い時から専門化する必要があるんだと考えます。そしてますます分離が進む。『知の技法』の三部作ってあるでしょう。実際に読むとくだらないですよね。これをまじめに読む奴はバカだと思います。くだらないのに理解しようとすると、一生懸命読んで無駄な時間をつぎ込むということになる。そんなことをする必要はないんです。自分がこれはだめだと思ったらぱっと読むのを止める。そういうのがこれからの時代では必要です。

教養課程の重要性

 日本の大学で教養課程が残っているのは東大のほかにはICUと上智くらいしかありません。日本の教育制度を牛耳っているじいさんどもの、「もっと早く専門課程を」という要求にしたがって教養課程をつぶす方向へいってしまったのです。ところが高等教育にとって教養は非常に大切です。アメリカの教育制度は大学4年間がすべて教養課程です。よくアメリカ大学の教育水準は低いとかいうけれども、そうではない。ある意味では低いかもしれないけれども、学生にもっとジェネラルな世界の見方を与えようとする発想です。日本とは逆です。社会・人文・自然科学を4年間やらせた後、大学院に行ってはじめて専門教育を受けるのです。日本はアメリカから教育制度を取り入れる時にこれを圧縮してしまって、大学4年間に専門課程と教養課程を押し込んでしまったのです。そして専門課程が2年間じゃ足りなくなって教養課程をつぶしてしまった。日本の大学は、world wideな水準からいえば基本的な教養が欠けた学生を大量に生み出していることになるのです。基本的な教養が欠けていると国際社会の場で本当にばれてしまいます。学会の後のパーティーでおしゃべりすることが何もないんですね。頭が空っぽだから。君たちはそういう所に組み込まれているんだという危機感を持って、自分自身で本当の教養を得るためにはどうしたらよいかを考えていかなければならないと思います。

コンピュータリテラシー

 コンピューターは基本的な知的ツールとしてだけではなくて、人文科学の分野に本当に使われだしているのです。特に大量のデータを扱う分野で威力を発揮しています。具体的には国文学のテクスト分析や、考古学、心理学などです。国文学を例に取ると、日本の古典のほとんどがテキストファイルになっているのです。先ほど知の技法がくだらないといいましたが、この検索に関する文章を読んでみます。この文章は英語のテクストのコンコーダンス(用語索引)に関して述べています。ここではコンコーダンスとして実際の本を例にとっていますが、今コンコーダンスは全部電子化されています。CD-ROMになっているんです。だから、コンコーダンスをどう扱うかはコンピューターをどう扱うかということになってきています。なのにこの人は、「検索というテーマですから、さらに関心のある人には、コンピューターを駆使した技術ということにならざるをえません。その場合には東京大学大学院総合文化研究科「言語情報科学」専攻「言語情報処理」講座の諸先生に直接ご質問下さい」と書いているんです。つまり、肝心のことは全然書いていない。コンピューターを駆使した技術という方がはるかに大事なのに。古典の文学研究においてコンピューターをどう利用するかを知らないと、もうどうしようもないんです。今までは、頭に蓄積した知識の総量で勝負をするというところがありました。例えば、古典のある単語が源氏物語のどこでどういう使い方をされているということが全部頭に入っている人がいるんです。でも、今は全然意味がありません。コンピューターにその単語を打ち込めば全てリストアップされて出てくるんだから。そういう変化に気づかない人が山のようにいるんです。
 加藤尚武さん、彼はヘーゲルに強いわけですが、彼が言うには、「7、8年前から哲学研究の方法が全く変わってしまった。ヘーゲル全集がCD-ROM一枚になってしまったので、どの言葉をどのコンテクストでどう使ったかの分析というのは全部無意味になってしまった。いまは、その次、それからどのように論を展開するかという方に移った」  今、コンピューターの発達に伴っていたるところで大変革がおきています。歴史、言語、心理など大量のデータを扱う分野ではコンピューターなしでは進みません。キーボードも使えないようでは話にならない。今日明日にでもワープロを買って練習するのが正しい選択だと思います。

文責:勝木健雄