第二回講義

 ゼミ生の一次募集が終わり、今学期からの新しい顔ぶれも半分出揃いました。
 今回の話は、インターネットとのつき合い方に、東大のこと〜大学全体のこと〜現在の知的世界の状況、先学期講義の概略と、新たに加入した学生へのレクチャー(深読みか?)のような内容となっております。前回最後でちょっと触れられた、サブサンプション・アーキテクチャの話の続きもあります。最先端の研究、全貌は理解し切れないまでも、わくわくします。
 それでは今回も、最後までおつき合いのほどを。

インターネットの情報収集

東大について

 世間で一番東大卒業生の割合が多い職場はどこか、というと、実は東大なのである。教授に関して言えば、実に全体の9割であり、助教授、助手等でもかなりの割合を占める。理系学生の大学院進学率はかなり高い。

今東大生(特に理系)がやるべきこと=英語とインターネット

 まず第一には、国際的に通用する英語力を身につけることである。特に理系の研究者を目指す学生には必須である。入試英語は通用しない。
 そのためには耳の訓練が最重要である。目安はTOEFL600点。訓練方法としてはCNNのニュースを、最初は意味が分からなくてもひたすら聞くのがよい(講師自身はラジオで放送されていたFENのニュースコメンタリーを録音して耳の訓練をした)。1〜2ヵ月聞き続けていると、ある日突然理解できるようになる。
 理系の学生には、世界中で最も優れているアメリカの大学の教科書を読むことも勧める。大学の英語Iの授業をさぼってでも、専門分野の英語を習得すべきである。翻訳版も入手できるが、out of date の知識しか入手できない。realtimeの情報を得る手段としては、学会誌、専門紙を読むのがよい。が、それらの雑誌でも掲載されていなければ? その答えはインターネットを利用することである。たとえばバイオロジーや電子工学などの分野ならば、驚くほど新しい情報を得ることができるだろう。知の最先端に即時に触れることができるのだ。とはいえ、インターネットの情報量は膨大である。ひと昔前の「1冊の本を精読する」というような方法ではとても追いつかない。まずその分野についての概略的な知識を得て、フレームを作る。そのあとは流し読みで重要な情報だけを頭に入れていけばよい。
 インターネットを利用する際に注意すべき点は、各ページの情報の質的格差がかなりあるということだ。最近出版された本に「インターネットはからっぽの洞窟」と題したものがあるが、これはある意味で正しい。確かにネット上には宝のページもあるが、がらくたも多いのだ。インターネットを使いこなせるかどうかは、ゴミの山の中からいかに宝を探し出すかにかかっている。
 フランスの美食家、ブリア・サヴァランの言葉に「君が何を食べているのか言ってみたまえ、君の性格を当ててやろう」というものがある。インターネットを「ただのがらくたの山だ」と主張する人間は、悪いサイトしか見つけられていない(食べていない)のにすぎない。
 日本の国際通信において、回線容量でインターネットは国際電話をすでに上回っている。この急速な発達の様子は、人間の脳神経細胞の発達によく似ている。電話回線という神経細胞を通じて、人間が大量の情報を交換し始めており、個人の持つ情報がグローバルに共有され始めたのだ。この知識の連結と共有が、インターネットの特色である。従ってよいページとは、リンクの充実したページと言い替えることもできるだろう。いいページには必ずよいリンク集がある。そのようなページを見つけるまで、さまざまな関連ページにアクセスしていく。見つけたらまたそこのリンク集から更なる情報を辿っていくことができるのだ。
 積極的に知識の再生産をしたい人には、インターネットは不可欠である。情報収集にはもちろん、自ら質の高い発信をすることで、世界的に認められ更なる情報が収集できるという利点もある。コミュニティ内の評価(peers review)は、専門家にとっては非常に重要である。それがインターネットを通して受けられるのだ。
 インターネットで最新研究を検索する際は、キーワード検索で自分の見たい分野のページを探す。よいと思われるページにアクセスできたらまず、論文冒頭の”abstract”を読んで善し悪しを判断する。その後価値あるものについては、プリントアウトして読み進めればよい。
 理系の学生にとって、専門的な英語をマスターすることはとても重要である。本物の英語の論文を読んでみて、どれくらいの英語力があれば研究者の世界で生きていけるのか知るとよい。講師自身は、利根川博士を取材したとき、膨大な英語の専門用語に戸惑った経験がある。が、理系の研究文書は、一度専門用語さえマスターすれば文章自身は平易で、容易に読み進めることができるものだ。

良いページの作り方

 幸い東大生は、自分のページを15MBの範囲で作ることができる。これは1人あたり単行本9冊分の情報を発信できる計算になる。東大生のホームページを集めれば、図書館並みの情報源となり得るわけである。
だが実際には、個々の駒場生のページのレベルは低い。これまで、駒場はあらゆる分野において日本の学生の水準を引き上げてきた。60年代の学生運動においては、「駒場を制するものは日本を制す」ともいわれた。しかしことホームページに関しては、時代に遅れていると言わざるを得ない。慶大SFCには、明らかに劣っている。アメリカで爆発的にインターネットが発達したのは、始めに学生がおもしろいページを作ったからだ。学生の力で、レベルの高いホームページを作って知を再組織化しなくてはいけない。
 よいページを作るには、なによりもたくさんのよいページに接することだ。よい消費者にならなければ、よい生産者にはなれない。そして、人が読みたいと思うようなページを作る。内容のすべてを自分自身で作る必要はなく、リンクを張ったり取り込んだりして充実させるのも手だ。またインターネットの大きな特長である双方向性を生かして、他人からの情報提供を求め、取り入れる必要もある。「ご意見・ご感想はメールで」という方法が簡便だろう。
 インターネットは現在の情報のありかたに適したメディアである。作り手と読み手が双方向に交流する、インタラクティヴなメディアであることが望ましい。

文責:土井理恵子竹村七瀬

現在の大学機構

教養課程=リベラルアーツ教育の崩壊

 教養課程が生き残っている大学は少ない。東大が唯一といってもいいほどだ。
 まず教養課程とは何か。『東京大学の概要』には、「本学では、リべラルアーツの理念に基づき、入学後二年間教養課程を学習しなければならない」とある。ではリベラルアーツとはなんだろうか。
 リベラルアーツ教育とは、人間の全体的な人格教養、つまり、幅広い一般教育を専門教育の前にすることである。大学の歴史は12世紀に遡るが、今でも欧米では最初の4年間はそれにあてられる。
 現在教養課程といえば自然科学・社会科学・人文科学を学ぶということになっているが、12世紀から近代に至るまでの歴史の中では、基本的に三学四科であった。その内訳は、三学が文法・弁証法・修辞学。四科は、算術・幾何・音楽・天文学である。この内容を徹底的に押さえてから、哲学を学ぶことになる。
 この哲学は現在我々が考えるような「哲学」ではなく、「諸学の母」としての哲学である。すべての知識は、哲学から生まれたと考えられ、三学四科を包括する地位にあった。
 以前の講義で、今の哲学者を散々馬鹿にしたことがあったが、それは彼らが人文科学の中の非常に小さな部分のなかだけで、重箱の隅をつつくようなことしかやってないからである。本来哲学の仕事は、サイエンスが得た知識をまとめ、新たな世界観を創造することであったはずだ。しかし彼らをふくむ文科系の人たちはサイエンスを全く無視しており、サイエンスが得た新たな知識が知の世界においてどういう意味をもつのかまるで考えていない。そうした状況に輪をかけるのが、大学において教養課程をつぶして専門課程だけにすることである。
 そもそも、欧米では4年間のところを2年間に短縮したのにも無理があるのに、この人格形成の土台作りをやめていきなり専門課程がはじまるのだ。いきおい高校の段階で専門を決めることになるが、この知的世界がどういうパースぺクテイブをもった世界なのか、ある領域が全体の中でどういう意味をもつのか、といった、グローバルな視野を持たないのにできるわけがない。これは要するに、専門で偉くなったじいさんたちが教育制度を決めてしまったことによる弊害である。
 早過ぎる専門の決定がいかに間違っているかについて、一例を挙げる。たとえば僕が学生のころ、理Iで一番できる人は素粒子論に行った。これは小中学生のころの湯川秀樹のノーベル賞授賞の強烈な印象があったからだろう。しかし、その大変優秀な人たちは、今ひどい状況におかれている。素粒子論の世界ではいまや、未解明な分野が非常に限られていて、その解決には莫大な予算をかけて巨大な設備をつくらなければいけない。つまり、ある小さな問題が世界中で研究者によって研究され、ひとつの実験に何百人もの研究者が名を連ねている状況にある。そんな何百人の一人として研究してもどうしようもない。こうした頭脳の浪費は学問の世界ではいくらでもある。同様に、僕が学生のとき就職先として人気のあった製鉄会社や化学系の会社は今つぶれかけているのが多い。

その影響

 日本の教育がリベラルアーツを捨てたことは、日本の将来に極めて大きな影響をもたらすだろう。それは、社会というものが、どの領域にせよ、組織から成り立っているからである。
 組織は、どうしてもヒエラルキーをつくらねばならない。軍隊用語で言えば、底辺にいるのがランクアンドファイル、つまり兵隊。その上にいるのが将官。この階級付けとは別に、参謀、英語でいえばスタッフがいる。組織として行動を決定するデシジョンメイキングは、将官層にまかされている。その決定のもと、スタッフによってポリシーメイキング、即ち手段の選択がなされる。組織の成否は、このポリシー/デシジョンメイキングにかかっている。ポリシーメイキングは専門家の仕事だが、最も重要なデシジョンメイキングは、すべての分野にわたる知識をもつゼネラリストがやらなければいけない。ゼネラリストの育成は、リベラルアーツ教育によるものである。今の日本の教育では、みんな専門家になってしまう。
 また、ヒエラルキーの上に立つものは、将官たるにふさわしい教養、責任感、倫理性を持たなければならない。西洋ではこれをノブレスオブリジ(nobless oblige)といい、日本では武士道がこれにあたる。日本が駄目になりそうなとき最後に踏ん張ったのが、ノブレスオブリジを持つサムライ的な人々だったのだ。この精神もまた、リベラルアーツ教育によって培われるものである。

学問と権力〜戸水事件・ディオゲネスの樽

 大学も組織である。大学という組織と権力を考える上で、非常に重要なできごとに「戸水事件」というのがある。これは、明治時代に「ロシアを攻めろ、バイカル湖以東を全部領有せよ」などと論じていた法科大学の教授を辞めさせるよう政府から圧力がかけられた、という事件である。政府が大学の人事に干渉したわけだ。このとき、どのように振舞うことが大学の自治を守ることなのか、という議論がなされた。
 明治憲法の中に「帝国大学令」がある。その中に、「大学は国家のためにある。国家が必要とする人材を育てるのが大学だ」という部分があった。この文章の解釈をめぐって議論がなされた結果、確かに大学は国家のために存在するかもしれないが、時の権力を握っている一政府のために存在しているのではない、という結論に達した。つまり、大学の人事決定権は大学にある、ということである。
 権力問題の核になるのは常に、人事と予算である。現在、日本では大学が独自に予算請求することができない。今の大学運営上非常に問題なのは、内部の人事等までも、予算を通じて文部省がコントロールしていることである。では、そもそも大学とは何なのか、何であるべきなのか。
 大学論を熱心にやったのははドイツで、現代でもそのドイツモデルが大学の基本モデルになっている。大学論を最初に展開したのはフィヒテという哲学者で、「大学とは自由な精神の同盟である」という言葉を残している。何よりもまず自由な精神が大学のバックボーンであり、それを失ったとき学問は学問でなくなる。これが学問の原則である。
 日本国憲法でも、第23条に「学問の自由」がうたわれている。ここで、具体的に「自由な精神」とはなにかに触れておきたい。それは即ち、あらゆるものに対する批判の精神だろうと思う。ここでいう批判とは、カントの「哲学とは批判の学である」という言葉における「批判」で、非常に深い意味を持つ。あることがらをきちんと批判することが、学問の一番基本的なエトスだと思う。学者は、利益を中心に動いているこの世の中で、権力をあくまで批判しつづける立場をとるべきである。
 学者と権力の関係を表したエピソードとして、ディオゲネスとアレクサンダー大王の話がある。皮肉学派のディオゲネスは、人間は禁欲すべきだと考え、樽を家として他には一枚の衣、袋、そして杖だけが所持品のすべてという生活を送っていた。あるときアレクサンダー大王はわざわざ彼を訪ねていき、「何でも欲しいものをとらせる」と言った。それに対しディオゲネスは「お前がそこに立っているせいで日が差さない、どいてくれ」と応えた。その言葉にアレクサンダー大王は「余はアレクサンダーでなければ、ディオゲネスになりたい」と言ったという。
 ほとんどの人は、権力に対して非常に弱い。しかし学問の世界に生きることは、権力と無関係である。そういうことだろうと思う。

文責:松野裕菊池悠

昨年の講義をふりかえると

昨年授業の概説

 昨年の一学期の授業で、僕は学生に「宇宙史上の10大ニュース」及び「生物史上の10大ニュース」として何が挙げられるかを考えてもらった。マクロなスケールで考えなければ、人間の現在を正しく認識することができないからである。その課題を素材にして、ビッグバン以来の物質の歴史、進化の捉え方、人間の本質、そういう話を展開してきた。次に、人間の歴史は「知の歴史」としてとらえるべきではないかという観点から、マクロな人類史についてずっと話してきた。詳しくは、昨年のレジュメを参照されたい。
 知の歴史という観点からいうと、ここ数十年間で今までとは比べ物にならないほどのパラダイム転換が起こっている。
 近代以来の基本的な知の構造のディシプリナリー(領域)がどんどん膨らんだ結果、新しい領域ができてきた。それは過去にあった学問領域の間をつなぐ領域なので、インターディシプリナリー(学際領域)と呼ばれる。いま最先端の領域ではインタディシプリナリー化がどんどん進んで、学問の主流はそちらにあるといっていい。それにつれ、インターディシプリナリーな学会もどんどん作られている。たとえば去年僕も創設に関わった学会で文理シナジー学会というのがある。あまりにも進みすぎた文理の分離を食い止めるため、文科と理科を融合し、そこから生まれるシナジー効果−−−異なる要素が集まることによって生まれる独特な効果−−−について研究しようという学会である。

3つの転回

 最近、さまざまな学問を通じて同じ変化が起きている。言語論(記号論)的転回、計算論的転回、そして脳科学的転回である。

このように、その学問プロパーだと思われていたターミノロジー(専門用語)を別の学問に適用することによって、多くのことがらが分かってくるというのはよくあることである。ターミノロジーは一種の学問の基礎で、それを使うと今まで見えなかったものが見えてきたりするのである。

歴史学における転回

 世界の歴史を扱うことになっている世界史が、本当に世界の全体を扱っているのかというとそうではない。ほとんどが西洋史と東洋史を並べただけである。世界というものを一つの単位として捉えて流れを見る視点はない。これまでの世界史は本当の世界史ではなく、実はヨーロッパ、アジアのローカルな歴史であった。このローカルからグローバルというパラダイムの転換が、歴史学だけでなくていろいろなところで起きている。また、ローカル/グローバルに限らず歴史を切る軸というものはいくらでもあり、そのように切口がどんどん変わるというパラダイム転換も起きている。

ObjectiveとSubjective

 学問はobjective(客観的)でなくてはならない、というのがかつての常識であったが、実際は自分の論を立てると必ずsubjective(主観的)になる。Objectiveな世界などなく、頭の中で理想化されただけのsubjectiveな世界なのである。結局現実に存在する世界とは、我々のsubjectiveな世界同士の間主観的世界なのである。

文責:緑慎也

サブサンプション・アーキテクチャ

昆虫型ロボット

 「人間は脳にいったん外界からの全ての情報を入れて、それを処理する脳からの命令によって動いている」という考えに立って人間の脳に似せたロボットのシステムを作るとする。たとえば、歩く速さを変えられたり、障害物をよけたりする知的移動ロボットを作る場合を考える。このとき、「センサー(感覚器)によって外界から得た情報」から外界のモデルを作り、その世界の中に存在するものとして行動を決定するルールをあらかじめシステムに与えておかねばならないのは明らかである。そしてこの与えておかねばならないルールの数は行動の複雑さにつれて多くなる。
 そこで「昆虫はそれぞれの足からの情報を足の間でやりとりしている」という事実に基づいて昆虫に似せたロボットのシステムを作ってみる。すると、脳に似せたはずの前述の方式よりも、この昆虫に似せる方式の方がはるかに簡単なルールで、はるかに複雑な行動をさせることが可能になる。この方式では、「足が後ろの足のセンサーに達して、隣り合った足が上がっていなければ、足をあげて、隣り合った足を上げないようにする。」といった足の上げ下げのルールしか与えられていない。しかしこの系全体としてみると交互三脚歩行、波歩行などの歩行法が現れてくる。それでこの、処理系の包摂を持つこの方式をサブサンプションアーキテクチャーと言う。(包摂とはもともと論理学の用語で、上位概念が下位概念を包み込むことを指す)とても自然な動きをするサブサンプションアーキテクチャー昆虫ロボットであるが、はたしてこのロボットは人工生命と呼べるのだろうか。ラングトンの人工生命の定義に照らしてみよう。

  1. 単純なプログラムの構成要素の集合から成っている。
  2. 全ての構成要素に指示を出す構成要素を持たない。
  3. 各々の構成要素が、置かれた局所的な環境でどのように反応するかの定義を持っている。
  4. システム全体の動きを決める定義を持っていない。
 1については、足の動きについての同じプログラムの集合なのであてはまる。2については、脳にあたるような情報を集中するような部分を持たないので、あてはまる。3については、構成要素と成る部分は、その足と隣の足との関係の、ローカルな定義だけを持っているのであてはまる。4については、ローカルな定義の中に全体についての記述がないので、あてはまる。ということで、ラングトンによれば、この昆虫規範型のロボットは人工生命だといえる。複雑な動きを創発して行うことができるサブサンプションアーキテクチャーであるが、すでに「この考えを広く使って人間の行動を説明できないだろうか」「脳だけが動いているわけではなくて、人間の局所で反射的に動く包摂構造があるのではないか」といった意見もでてきている。

文責:山田智之
編集:平尾小径




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