立花ゼミ企画列伝

〜生者必滅の習い〜

これは、某ゼミ生による、ゼミに浮かんでは消えた数々の企画たちを送り、
悼む宴である。信憑性は疑わしいが、0というわけではないし、別にいいだろう。

立花ゼミ


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 96年度夏学期から97年度冬学期の2年間、評論家立花隆と秘書佐々木千賀子、東大助教授松田良一と東大教養学部(前期課程)の学生を主力とするグループとが共有した空間、場の総称。98年3月現在では、この先どのような形態をとるのかは未定だが、なんらかの形で継続していくことと思われる。この時期に、まだ先行きどうするか決まっていないのは、ずいぶん情けない。ただ、そういうドロナワさは、さらに情けないことにこの集団本来の資質に近いものがあるので、誰も不安がっていない。と思う。

サポートグループ >>>


■■■1996年4月17日、駒場キャンパス1313教室にて発足。

 そもそもは、『立花隆』の駒場で初めての講義では無理もないが、教室がすし詰めぎゅうぎゅうだったことに始まる。熱気はむんむん、雰囲気は悪くない。しかし落ち着いて講義できる状態ではない。なにせ講師が演壇にたどり着くにも、通路をぎっしり埋めた学生を踏み越えかき分けて進まなければならなかったのだ。そこで講師側は予定通り、この教室に座れる人数に限って、聴講許可を出すことにした。

 選考方法は2種類。まず希望者が提出したカードによる抽選。自分の運に自信のない学生には、講師指定のテーマでレポート を「ワープロ/パソコンで」書くという選択肢が残された。
 ある種の学生にとっては、これは苦難であった。締切は一週間後、しかも「ワープロ/パソコン」。大学側が期待するほど、学生とコンピュータとの関係 は良好ではなかった。しかし今日の聴講者全員が希望を出すとしたら、抽選に当たる確率は控えめに言っても高くない。しかし講義は受けたい。どうしよう。切羽詰まった一部の学生たちは、講義最後の講師の言葉に縋ったのである。
 その言葉は、こうだった。

“この講義を ホームページにして、ウェブ上で公開しようと考えています。ついては、その作業を行う学生を募集します”

 もちろん、それだけではなかった。

“作業に参加する学生には、聴講許可を与えます”

 さらにこう続いた。

“講義参加者に課す予定の、レポート課題も免除します”

 聴講許可が手に入る。しかもそういう作業に参加すれば、上手くすれば立花隆と直接話せたりもするかもしれない 。おいしい。おいしいぞ。

 作業自体、好奇心と意欲を刺激される面白そうなもの。しかも特典付き。「その仕事、やりたい!」という純粋なモティベーションと「これは、いい話じゃないか」という打算が、一部学生たちの間で渦巻いた。その配分率は各人異なったが、とにかくその意識が、彼らを動かした。
 かくして講義後、1313教室には40人あまりの学生が残留した。

 ちょっと考えてみれば、「ワープロ/パソコン」に引いた人間が、ウェブページを作る作業に参加するという矛盾を発見することができただろうし、課題免除は特典というよりはその、むしろ、交換条件 に近いものだということにも気づけたはずだ。しかし、特に筆者のよく知る一部学生は、興奮のあまりそんなことには頭が回らなかった。
 コンピュータに詳しい人間も当然いた。しかしそれは、40人中(今考えると)5,6人だった。空恐ろしい。

 40人あまりの学生は、その場で3グループに分けられた。その後多少の淘汰を経て、2回目講義以降はW.MinJ (と書いて ヤオハンと読む)/ Mittwenstein (と書いて 水戸弁シュタインと読む)の2グループ競作でページが公開されることとなった。その体制は、96年7月の夏学期最終講義 まで継続された。
 96年度夏学期、講義は実質4ヶ月弱の期間行われ、そして終わる。それがこの「サポートグループ」発足時の共通認識だった。というより、それが確定した事実だった。しかしまあ例によって、その認識は誤っていたのである。

二十歳のころ >>>


■■■1996年7月12日に開始された企画。

 その起源は、96年6月19日の第9回講義に遡る。講師はいきなり、「冬学期もやります」と言いだした。「自由研究ゼミナール という名前でやります。少人数のゼミナール形式で」なおかつ、「冬学期で一冊の本を書いて、出版するつもりでやります」と。思えばこれが、以降ずっと学生の目の前にぶら下がり続けた人参=「本、出します」の始まりだったのだ。

 講師はさらに、その本の企画を学生に募集した。学生が提出した思い思いの企画は、7月12日のブレインストーミング に集約されたが、結果学生と講師に受け容れられたテーマは、講義内容の出版を担当する編集者氏立案の「二十歳のころ」だった。

 企画内容は、「現在20歳前後の学生たちが、著名人あるいは市井の人々の20歳のころについてインタヴューする」というもの。これを軸とするなら、各ゼミ生が興味関心に従って取材対象者を選べるわけで、自由度が高い。

 以降幾度か開かれたブレストで、ゼミ生は思い思いに興味とミーハー心もちょい込めて人選 を進め、夏/秋休みに取材することとなった。休み中というのには理由があって、この企画にはもともと、冬学期に「本格的に行う」企画のための習作という含みがあったのだ。

 当初予定では、休み中に取材はほぼ終了、冬学期に原稿化で、学期終了後の97年3月には出版という運び、のはずだった。ただしこのゼミの予定は常に間違いなく予定であり未定であって、実現することはきわめて稀なのである。

環境問題


■■■1996年10月25日(たぶん)発足。

 これはそう、通称「立花ゼミの3DO」、「立花ゼミのE電」、「立花ゼミの伊達杏子」に近い位置づけの、もう苦笑するしかない甘酸っぱい思い出である。

 二十歳のころは習作。で、本題が『環境問題』になったのがいつか、はっきりとした記録は出てこない。ただ、立案者ははっきりしている。講師である。その理由は、というと、これまたはっきりしないのではあるが。「今後、人類にとって最大の問題になることが予想されるから」でいいのだろうか。今度聞いてみよう。当時の発言では、「学生にも手出ししやすい」テーマだ、ということだったような気がする。それではゼミ生たちはちゃんと手出しできたか、というと。

 前述の通り、ゼミ生たちの目の前には常にエサがぶら下げられていた。書店売りの本を出せる。なんという魅力的なエサだろう。意欲によってか、虚栄心、あるいは上昇志向(指向?)によってか、ともかくこのチャンスに惹かれない人間はそういない。しかしそこで、プライドと実力の間にあるとてつもなく深い溝に、ゼミ生たちは一斉に躓いたのである。

 本の企画会議は、最初から紛糾した。「環境問題」というテーマは、確かに間口が広い。それだけに浅薄な知識で分け入るには、あまりにも奥が深すぎた。読み応えのある、いい本を作りたい。しかしその目標は、小説家になるために小説を書きたいというのにも似て、いつまで経っても具体的なアクションには結びつかなかった。端的に言えば、どんな本を作りたいのか、誰にも全体像は描けていなかったのである。

 具体的に何が起こったのか、説明しなければなるまい。「環境問題」というテーマが与えられた後、ゼミ生たちは何度か企画会議を持った。しかし興味範囲はバラバラで、「統一した視点が必要だ」という点で合意を見たものの、その統一した視点を提出することはできなかった。もちろん、案は数限りなく出されたのだ。しかしどれも決め手に欠けた。そしてゼミの組織は、決め手に欠けていた。「決める人」という意味の「決め手」である。

 どの案にも一長一短あり、完全ということはない。提出された案には、その欠点を指摘する反対意見が出た。そこまでは、会議なのだから当然だ。しかしこの会議には、致命的なまでにフォローが欠けていた。つまり、反対意見が成り立った時点でその案はどこかに行ってしまうのである。この案は駄目だった、では別のことを考えようというので、またゼロからやり直しである。

 議論を「積み重ねる」ためには、議論をする人間と、議論で現れた発言を整然と積んでいく人間とがいなければならないのだろう。今考えれば、そういうことだったのだ、とわかる。ただまあ、事実が証明するとおり、そのときはわからなかった。

 やがて会議は「本を出す意義」を議題にする方向に移行していき、抽象論を一通りやったあとは「こんなことばかり言っててもしょうがない」で具体的議論をしようとする、そうしたところで発言の煉瓦は地面に散らばるばかりで、一向にこぶたのおうちになろうとはしない。ずいぶんと稚拙なことを、と思われる向きもあろう。もっともだが、実際こうなってしまったんだからしょうがない。

 一方講師は、空転する方針会議を「取材対象をリストアップしろ」というアドバイスで救済しようとした。それを受けて、ようやく具体的テーマ毎のグループができあがった。96年11月15日のことだ。

 その時点では、

などのテーマが挙がっていた。それぞれに7〜8人のゼミ生が付き、活動がなんとか始まった。

 で、ここで初期条件は何だったかを思い出してみよう。そう、「一冊の本を作る」でしたね。さて、上4つのテーマが、果たして一冊の本になるのでしょうか。

 ・・・そうです。なりません。なりませんね。

 そしてもうひとつ、ゼミ生たちにはひっかかりがあった。調べるほどに、当然ながら、各分野の専門家には敵わないことがはっきりしてきたのである。調べる最終目的は、自分で理解することではなく、そのことで本を書くことだ。しかし、専門家のプロダクト以上のものが、そう簡単にできるはずはない。

 結論から言えば、「環境問題で本を出すぞ計画」は、ポシャった。ポシャったのは、「本を出すぞ」の部分である。

 明けて97年、1月24日。講師は、「アウトプットのやり方に問題があったのかもしれません」と言い出した。「本を作る、というのはやめにして、web上に環境のページを作る、という方向でやろうかと思います」というのだ。

 ゼミ生は、一も二もなく受け容れた。他の方法など考えつかない。本を作るのは無理だろうな、とは、当然感じていたのだ。しかし例によって、その問題提起をする人間はいなかった。見かねて講師が手を差し伸べてくれるまで、待っていたのである。

 かくして「環境問題」というテーマは、形を変えて継続することとなった。と、ちょっと待ってよ。これでは、「立花ゼミの伊達杏子」ということにはならない。

 では、何が起こったのか? それについて語るには、まずこの話をしなければならない。

サイバーユニバーシティ >>>


■■■1997年4月28日、渋谷はセンター街、PRONTO二階にて産声を上げる。

 それは、簡単なレポート選考によって決定した新ゼミ生たちの歓迎の宴の席上だった。挨拶に立った講師が、またもやぶちかましたのである。

“これから自分で学問を始めようとする人が、最初に見に行くようなページを作る、それを今学期の活動とします”“題して『学問のすすめ』”

 そのネーミングはともかくとして、この「学問のすすめ」が現在まで続く活動「サイバーユニバーシティ」の前身となった。わけだ。
 前出の「環境問題」のテーマたちは、この企画の中に組み込まれた。

 のち、そのアイデアを具体化する段階で、二つの方向性が生まれた。好きなテーマを研究する「テーマ別発信」と、学問世界入門をサポートする「(初めての)ブックガイド」、である。

 目先の目標は、たくさんあった。YAHOOにページを登録するとか、学問分野の全てを網羅してブックガイドを作る、とか。しかし、数多く提出されたテーマの多くが、まるで遠距離恋愛のカップルのように次々と消えた。片方に未練が残っていればもめ事のひとつも起こり、華々しく終わりを迎えることもできたはずだが、大抵は関係者の全てがいつの間にか忘れている、という何とも情けないことになった。
 掛け持ちの人間が多すぎたのも原因の一つかもしれない。「責任者」は名目決まっていたものの、本当にそのテーマに思い入れ、それをやっていこうとする人間はあまりいなかった。「乗ったらすごいがやりたくないことはやらない」当然だが、「途中でやりたくなくなったら自然消滅」までもが許容されることはないはずなのだ。なのだが、済し崩し的に許容されていってしまったのである。集団自体に、自律的に動くダイナミズムが欠けていたともいえるだろうか。とにかく、「環境問題」のテーマほとんどは、この段階で姿を消した。一時は、それで本を出版するはずだった企画が。

 そんな状況の中、熱意あるゼミ生と、その熱意を引きつけ続けるだけの魅力を持ったテーマ群は幸運だった。今も活動を続けるその数少ないテーマ群は、淘汰された結果といってもいい読み応えを持っている。
 その中でも、「随一」と言いきってもゼミ生に異論のないものは、なんといっても「埴谷雄高」ページだろう。これはこのゼミが生んだ、と言うより、このゼミが場所を提供したという方がふさわしい気がする。講師と担当学生の幸運な出会いが、この成果を生んだわけだ。

 結局今も、立花ゼミのメインページのインデックスは「サイバーユニバーシティ」となっている。稼働中のページがある以上当然だが、ほとんどのページで更新が止まっている以上、大掛かりなテコ入れが必要だろう。
 集団全体に動こうとするダイナミズムがないと、人は動いてはゆかない。しかし本当に動こうと思うなら、自分で走り始めるしかないはずなのだ。集団と個人、二種類の歯車を何とか回そうとして、ゼミ生は悪戦苦闘を始める。

輪講 >>>


■■■1997年9月15日、代々木オリンピックセンター内で始まる。

 3学期一年半の間、講師はずっと講義し続けていた。年度が替わってからは、一回の講義時間は当然のように3時間だった。実はこれは、「少人数の学生を鍛える」という授業開始当時のコンセプトからは遠く隔たっていたのだ。そのせいかどうか、97年度冬学期は、講師指定の本一冊ずつを、2週間2コマかけて学生が発表する輪講方式をとることとなった。その告知があったのが、秋休み合宿、暑さにけむる代々木だったわけである。
 本は『マクナマラ回顧録』『メタマン』『境界例』『日本軍の小失敗』『奪われし未来』の5冊。この順番で、10月以降発表が行われることになった。

 またどうしてだか、トップバッターのグループが燃えてしまったのだ。
 理由はいろいろだ。どうせやるなら新しいもの、衆目を驚かせるもの、そしてきっと、これまでの流れを変えるもの。そう念じたのだろう。
 自分たちという個人が走ることで、集団全体を走らせたい。これまでこのゼミで何人もが挑み、また失敗してきたこの課題に、彼らも挑戦したのだ。
 結果この『マクナマラ回顧録』を担当したグループは、緻密さとは無縁だったものの勢いのある発表をし、一時的ではあるが、ゼミを走らせることに成功したといっていいだろう。
 後続のグループも力の入った発表をし、最後の『奪われし未来』のグループは、講師と共に環境ホルモンに関する本の出版準備に入っている。

 このように「輪講」は、なかなか実り多い企画だった。のだが、冬学期には、夏学期にいたメンバーの…少なくとも半分は姿を消していた。気張っていたのも、それをきちんと見たのも、登録ゼミ生のほんの一部だったのだ。そのかわり、と言うのもヘンだが、大量の新入りが現れた。他学の学生である。
 96年97年両方、紆余曲折はありながらも、前出の企画『二十歳のころ』小冊子の販売が行われた。97年11月の駒場祭では、何とか間に合った第四集を、既刊と共に販売した。そのときゼミ生たちは、訪れた他学の学生に、「毎週金曜、駒場で講義してます」「誰でも入れます」と説明したのだ。翌週から、20人くらいの他大学の学生が講義に参加するようになった。冬学期の終わりごろには、聴講生中の東大生比率は5割を切っていただろう。最後になってゼミは、口コミという最古の方法で、大学の枠を越えた団体になったのである。


 輪講企画を最後に、立花ゼミは公式な授業としての駒場での活動を終えた。しかしおそろしいことに、まだゼミの活動は全く、なああんにも終わっていないのだ。確実性の高いものから、『二十歳のころ』単行本化、他に書店発行する本の企画立て、そしてもちろん、ページのメンテナンス/更新もである。
 これから何があるか、何が終わって何が始まるのか、いつの間にか消えてしまったなどということがもう起こらないよう、筆者自身見守っていきたいと思っている。筆者のよく知る学生も、このゼミでできることはまだある、と考えているようだ。
 立花ゼミの重要な構成員の一人である、講師秘書の佐々木千賀子さんが、メールでこんなことを言っていた。

 「これまでの2年間がインプットだとしたら、これから、アウトプットの数年間が始まります」

 アウトプットの数年間は、ことによると一生続くかもしれない。このゼミで溺れかけ水を飲みながらも泳ぎ切った2年間は、ゼミ生に情報の大海を泳ぐひれを与えたのかもしれない。少なくとも、気を抜いたら溺れる過酷なレースは、当分まだまだ続くようだ。


文責:平尾小径