多義性について

遺伝子とは何か

 『そんなバカな!』の著者や、『The Selfish Gene』の著者はどの辺りを根本的に誤っているのだろうか。まず、彼らの主張は「人は遺伝子の乗物である」、つまり「生きているのは遺伝子で、人は遺伝子が生きていくための乗物である」ということである。ここで問題になるのが、そもそも遺伝子とは何なのかということだ。遺伝子とは歴史を背負った言葉で、歴史のどういう局面でどう使われるかによって意味が異なってくる。遺伝子という言葉がはじめて使われた頃は、遺伝子はまだ概念に過ぎず、その存在が立証されていたわけではなかった。メンデルの掛け合わせの実験によってその存在を「想定」せざるを得なくなっただけで、コンセプチュアルなものだったのだ。1950年代になるとDNAが発見され、これが遺伝子の正体であるということになった。

遺伝子系と表現系

 よく使われる概念に、遺伝子系と表現系というのがある。遺伝子系の変化というのはDNA上の変化のことをいい、表現系の変化というのは表に出た形質の変化をさす。表現系の例としては、ショウジョウバエの赤目・白目や、羽が曲がっているかまっすぐかといったことがある。この遺伝子系と表現系にはずれがあり、遺伝子上に変化が起こっても外見に変化が表出しないこともある。表現系に変化が現れたからといって遺伝子系の姿そのものを伝えるものかというと必ずしもそうではない、ということが分かってきた。表現系と遺伝子系は一対一対応ではないのだ。

遺伝子の発現

 真核生物の場合、長大なDNAのうち遺伝情報を担っている部分はほんのわずか(DNA全長の数%)しかない。大腸菌の場合無意味な遺伝子は少ないが、哺乳類になるとほとんどの部分は繰り返し遺伝子や偽遺伝子、スペーサー、イントロンなどである。DNAから転写が行なわれる時は編集(スプライシング)が行なわれ、意味のある部分(エクソン)だけが転写される。しかも意味のある部分でただいま現在発現されている遺伝子というのはほんの一部しかない。ほとんどの部分は眠ったままである。常に発現する部分は普遍的遺伝子と呼ばれ、エネルギー生産、細胞骨格系などの細胞にも必要な働きを担った遺伝子である。それに対して一時的にしか発現しない(一生にたった一度しか発現しないものもある)ような遺伝子は特異的遺伝子と呼ばれる。


転写

 大雑把にいうと、発現される可能性というのは、転写されるかどうかということと同意である。転写とは、DNAからRNAに情報が写しとられることである。30億ぐらいもある塩基配列のうち、有意義なのは数%で、それが転写されて発現する。しかし、昔は無意味な配列など殆んどないと思われていた。これは大腸菌などにあてはまるが、哺乳動物では、大半は無意味な情報のない部分だった。また、保存から転写されたのが、実際には発現されていないこともわかり、転写の過程そのものが最近ようやくわかってきた。

転写の仕掛け

 昔は、基本転写機構しか知られていなかったが、今や遺伝子ではとても複雑な部分が一番大切だとわかった。DNAの中から有意味な所だけを取り出し編集する過程で、基本転写因子は、自分が担当する部分だけを写しとって、RNAがつくられ、運ばれる過程の中でタンパク質ができる。情報をよみとり、RNAを作っていく過程がなされ、その時30億もの塩基配列の中からどこの細胞がどこを読みとるかがきちんとしていないと、生体は活動を妨げられてしまう。そのため、転写機構は精密になっている。
 かつては、この働きは基本転写因子のみによると考えられていたが、DNAのどの部分が発現しているかというと、ハウスキーピング遺伝子やエネルギー生産遺伝子などといった、どの細胞でも発現し、それがないと細胞としての働きが保てないものを除いては、多くは眠っている。ある特定の働きをする遺伝子を特定の時に働かせる機能はとても複雑で、それを転写制御機構という。基本転写因子と、特異的な構造も機能もそれぞれに違う転写制御因子がある。転写因子はタンパク質か前タンパク質的なもので、それが今度はDNAにいく。転写因子は、遺伝子の情報を持つ部分を目覚めさせるが、調べていくと、因子が次々と連なって遺伝情報を起こすような大きな階層構造になっていることがわかった。具体的には、タンパク質は具体的には立体構造であり、そこに物質をはめこむような立体的活動をして、具体的に転写を起こしているのである。
 基本転写遺伝子は相手を選ばず働くが、転写制御因子は多くの種類があり、働きも様々である。そして、ある遺伝子を起こすために、およそ3〜4くらいの階層制御因子群で制御されていると考えられている。そういう制御因子のネットワーク構造またはカスケード(雪崩現象)で、遺伝子現象は起こっているのだ。

転写研究の今後

 転写研究は90年代に急速な進歩を遂げ、少し古い時代(80年代)の本には、転写と制御についてろくなことが書かれていない。転写制御について教科書を書こうとすると1000ページにも及んでしまうほどであり、生物学のどの分野でも、転写について理解しないとメカニズムがわからない時代がやがて来るだろう。生命現象は転写で説明できるケースが増えており、分子生物学の焦点はこちらにきたようなところがある。

転写制御

 膨大な30億の情報のどの部分をいつ起こすのかを決めるのが転写制御因子である。その転写制御因子の働きを決める情報も遺伝子の中にあり、さらにその情報も遺伝子の中にある。いわば情報の階層構造になっているのだ。このような過程が分かってくると、遺伝子そのもののメカニズムもさることながら転写制御のメカニズムの方がむしろ本質的に重要だと言えるだろう。その意味で転写制御のメカニズムが分かっていなかった生物学は、遺伝子の理解で言えば小学生レベルだったということになる。

遺伝子の多義性

 一つの遺伝子の働きが一つに決まっているわけではなく、一つの遺伝子はいくつも目的を持っていて全然違った働きもする。つまり遺伝子というものは、一つの言葉のようなものなのだ。言葉には辞書を引けばいろんな意味があり、同じ言葉が文脈の中でいろんな意味を持つように、遺伝子も多義的なのだ。もし遺伝情報とそれが使われる目的が一対一の対応だとすると、生命現象に必要ないろんな情報にはとても足りない。だから一つの遺伝子を多義的に使い回しをする必要があるのである。そして実際そのような仕組みになっているということが分かってきた。

 人の場合、10万の遺伝子の1%は1000個になるが、1000個発現する場合、遺伝子の一つのエレメントとすれば非常に多いことになる。人体を構成している60兆の細胞の中では、その人が何かをしているときに発現している1000個の遺伝子と、また同時に別のところで発現している1000個の遺伝子は全く違うものだ。要するに、人体では至る所で全く違う遺伝子が働いているのである。しかもその中には一生の間にそのときだけしか発現しないものも相当ある。
 人間でも、すべての生物でも、その歴史の時間軸の中にどの遺伝子をいつ発現させるかがプログラムされているのだ。このことはコンピューターになぞらえるとわかりやすい。遺伝情報のすべてがコンピューターのメモリに入っていたとすると、それを読むためのOS(基本ソフト)が必ず必要になる。これが基本転写因子に対応する。次にどの遺伝子をどう読むかについては、それぞれのアプリケーションが必要になる。これが転写制御因子に対応する。コンピューターのOSによってアプリケーションが違ってくるように、読みとられた情報はそのときの具体的な状況によって全く違ってくる。

ポリジーンとモノジーン

 前回ショウジョウバエの性行動について話した。あの一連の行動に関わっている遺伝子の数は分かっているだけで十数個であるが、この十数個というのも性行動の異常行動に関わる遺伝子の数にすぎず、日常的に関わる遺伝子の数までは数えられていない。そこまで数えるとすると、生物の行動に関与する遺伝子の数は途方もなく多くなる。

 生物の行動というのはほとんどがポリジーン(複数遺伝子)で決定されている。 ところが『そんなバカな!』の理論の背景にあるのは、生物のほとんどすべての行動がポリジーンで決定されているにもかかわらず、実はモノジーン(単一遺伝子)なのだという発想なのである。これは全く違う。しかもこの理論は、以上に述べたような遺伝子の多義性などが全く分からなかったときの理論であり、理論適用の制約を無視していると言える。

人は遺伝子の乗り物?

 「人は遺伝子の乗り物である」と言うときの遺伝子とはいったい何なのか。遺伝子は転写制御因子が関わって初めて発現するのであり、これが一つの系となる。したがって転写制御因子によって発現の仕方が変わるので、遺伝子にだけ意味があるのではない。さらに発現した遺伝子と遺伝子がどう関わるか、つまりポリジーン的な関わりがどれくらいあるかというと、例えば大腸菌の遺伝子の数は3000だが、この3000のうち任意の2遺伝子の組み合わせの数は10の7乗になるのである。大腸菌でさえこれだけ組み合わせの数が多いのだから、まして人など訳が分からなくなるほど難しくなるのである。

 遺伝子の多義性について、言葉というものをイメージするとかなり近似できる。言葉を使って一つの文学作品を作るが、10万語を使って作った作品が人というわけだ。10万語を使えばシェークスピア全集ぐらい書けるが、彼女たちが言っていることは、「シェークスピアの作品は言葉の乗り物である」と言っているのと同じことなのである。つまりシェークスピアの作品の主体は単語だというように完全に逆立ちした理論なのである。

音楽というもの、言葉というもの

 武満徹さんの『音楽を呼びさますもの』という本に含まれている文章は、多義性というものを考える上で非常に良いことをいっている。(配布したプリントは「音とことばの多層性」という部分の抜粋。24,25,30,31ページ)
 音楽で使う音と言葉は非常に似た役割を果たしている。そしてどちらも多義性、多層性という性質をもっている。そこに大きな意味がある。
 言葉というのは表面上の形式のもっと奥に別の意味がある。「音楽家が考えている言葉とは、正確に何かを名指すとか、インフォメーションの媒体として言葉を言うのではなく、日常使われている言葉というもののさらに奥深くにある隠れた源泉を表すものである」言葉は、表面的に或るものを指し示しているわけだが、指し示しているもののさらに背後にあるものを吟味している場合がある。
 たとえば映画の歴史を考えると、無声映画というものがあった。無声映画は言葉を全く使わなかった。当時の映画芸術家たちは言葉を持たないということによって、沈黙の中で文学や演劇の持っている、言葉の隠された面に気がついた。

一義的であることとは

 配布した文章の中でも、不定形なもやっとしたものにある方向を与えたり、明瞭な縁をつけていくもの、それが言葉というもので、それは常に多義的で多層なものだといっている。
 たしかに、言葉で表すときというのは、なんだかはっきりしないものをはっきりさせようとするが、言葉が事物をはっきりさせる方法というのは実はかなり多義的であやしい、ピシッと決まらないものだ。
 また、最近では語彙が非常にふえてきている。それは言葉を厳密に、なるべく一義的にしないと現代生活では不都合だからだろう。彼はこうも言っている。「しかし言葉は、ぼくにとっては、そうなれば正確になってはいくけれども、ある意味では非常に痩せたものになってしまう。でも、言葉そして音楽は、まず痩せてはいけないと思うんです」
 彼が音楽のほうで考えていることには、一つの音はそれ自体ある幅を持った存在であると。実際には或る指定された音とは内容的には違う音であって、いつでも混合したものである、と言う。一つの音でありながら同時にヘテロフォニック、まさに音の多義性ということを考えている。
 「一つの音には測り知れないほどの夾雑物がある」「音というものを存在させているのはただ一つのものではなくて、二つあるいはもっと多くの違うものが同時に存在することでその存在を支えている」「音楽全体の構造と一つの音の関係というものは、一つの音のなかに全体の構造が既に見えていないとだめ」これは最近の数学理論にもあるような構造だが、そういう構造をしているのが一番良い、と言っているわけだ。

多義性が全てを支える

 多義性こそが自然の本質、というところが実はある。彼がいみじくも言ったように、多義的なものを一義的なものに近づけようとすると、豊かさを失ってしまう。豊かさとは、まさに一つのものにたくさんの意味を込めることにある。遺伝子は言葉に似ていると言ったが、遺伝子ももし「一義的」なものだったなら、とてもこんなに豊かな生命世界は作れなかっただろう。こういう生命世界は小宇宙の世界ともいえる。細胞一つでも小宇宙だし、その中の遺伝子を構造的にとってみても大変複雑で、そういう意味でも小宇宙なのである。そういったいろんな意味での「小宇宙」を底から支えているのが多義性なのだ。
 哲学が19世紀の頃からどうしようもなく貧しくなってきた原因はどこにあるか。すべての哲学者がそうだし、特にドイツの哲学者がそうだが、言葉を徹底的に定義して一義的にしようとする。しかし一義的な言葉だけでいくら世界を語ろうとしても豊かな世界は構築できないのだ。それはある意味での哲学の二律排反である。厳密にものを言わなければ哲学ではないというところがあるから、言葉を厳密に一義的に定義し、その中でしかその言葉を使おうとしない。しかしそれによって哲学そのものはどんどん貧弱になってゆく。そしてやがて19世紀の哲学書など、大学の先生しか読まないという状況になってしまったのだ。

人の論理

 遺伝子の本体をどう考えるか。遺伝子が生きていて、生きものはその乗物であるという考え方はどうかと思う。古典的な概念である遺伝子系、表現系というものも、どの階層で扱うかによって意味していることが全く変わってしまう。ラッセルのタイプ理論というものにもある通り、今語っている対象がどういう階層構造のどの部分を指しているのかをきちんと区別する必要がある。遺伝子と一口にいってみてもそれ自体が小宇宙的な、転写などのさまざまなプロセスを含んだ階層的な構造をとっている。どの部分を語るかをはっきりさせないことで「そんなバカな」理論になってしまうのである。  量子力学で、常識では考えられない現象が起こる、というのも日常言語で語るからおかしくなるのであって、量子力学を語るのにふさわしいもの(量子論理)を使えば矛盾はすっかり解消される。

 人間の論理というものは、一見経験とは無関係の、純粋に形式から生まれたもののように考えられているが、実際は人間の論理そのものが本当は一種の非常に高次の経験上の知識から作られた直観に基づくものであり、論理の一番ベーシックな部分は崩せないように見えても、ニュートン力学の世界に対して量子力学が作り得たように、日常言語の論理に対しても量子論理をつくって、むしろその中に量子力学の世界を取り込むことも可能なのである。
 ゲーデルの証明は確かにとんでもない結論を導いたが、ゲーデルの用いた論理そのものの成立基盤を疑って別の可能性を考えれば、つまりあれは一種のタイプ理論違反であると主張してゲーデルのびっくりするような証明の結論を消すということもできるかもしれない。


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関連用語/参考文献


文責:勝木 健雄・田村 英康・緑 慎也・小園 拓志・菊地 悠
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